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第8話 泣き終わったら

 ステッキは、鍛冶場の炉のそばにある。


 そのことばかり考えながら、ベルは朝の通学路を早足で歩いていた。第七街区の住宅地は、パンの焼ける匂いと洗濯物を乾かす蒸気で、白っぽく霞んでいる。牛乳配達の荷車が、瓶をかちゃかちゃ鳴らして横を過ぎていった。


「鍛冶場に寄ってたら間に合わないわ」


「変身は」


「できない。ステッキがないもの」


 角を曲がったとき、足もとの石畳が持ち上がった。 轟音が来た。 地面が裂け、白い柱が噴き上がった。三階建ての屋根より高い。熱風が顔を叩き、眼鏡が一瞬で真っ白に曇った。主蒸気管が破れたのだと理解したのは、窓ガラスが次々に割れる音を聞いてからだった。 湿った熱が喉に流れこむ。咳きこんだ。肺の内側まで茹でられるような息苦しさだった。 袖で眼鏡を拭う。曇りの向こうで、パン屋の軒先に女の人が倒れていた。白髪をまとめた老婦人だ。並べかけたパンが石畳に散らばり、足首を押さえて動けずにいる。風向きが変わった。白い壁がじわりとそちらへ傾いていく。 ベルは走っていた。 ステッキはない。装甲もない。制服の袖を口に当てたまま、熱の壁の縁を回りこむ。膝から下が湯気に濡れて重い。靴の中まで熱い水が染みてきた。 破れた管の手前に分岐弁があった。路地へ蒸気を逃がすための、歯車仕掛けの弁。管理局の職員しか触らないはずの、黒く塗られたハンドル。 ベルは両手でそれを掴んだ。 熱い。 手のひらの皮が鉄に貼りつく感触があった。歯を食いしばってハンドルを回す。動かない。錆びついている。 歯車の噛み合いを指先で探った。昨日の痺れが残る右手より、左手のほうが確かだった。二枚目の歯と三枚目の歯のあいだに、錆の塊が挟まっている。ベルは足もとの割れた敷石を拾い、その角で一度、鋭く叩いた。 錆が弾けた。 ハンドルが回る。蒸気の柱が身をよじるように傾き、老婦人の頭上を越えて、無人の路地へ流れていった。 ベルは両手を離した。左の手のひらが赤く腫れあがっていた。心臓が打つたびに、そこだけが別の生きもののように脈を打った。 パン屋の裏口から、子供が三人転がり出てきた。いちばん小さい男の子が、ベルの制服の裾にしがみつく。顔じゅう涙と鼻水で、口を大きく開けて泣いている。上の二人も、老婦人の腕にすがって泣いていた。 蒸気管は直せない。本管の弁はここからは遠い。 ベルはしゃがんで、男の子と目の高さを合わせた。痛くない方の右手を、湿った髪の上に置く。焼きたてのパンの匂いが、髪に染みついていた。


「泣いていいよ。こわかったね」


 男の子は泣き止まなかった。


「私もこわかった。でもね」


 曇った眼鏡越しに、男の子の目を見た。


「泣き終わったら、立って」


 しゃくりあげる合間に、男の子が小さく頷いた。 ベルは老婦人に肩を貸し、四人を連れて蒸気の外へ出た。背後で、制服の男たちが駆けてくる足音がした。蒸気管理局の紺の外套。先頭の背の高い男が本管の方へ走っていき、ほどなく白い柱が細くなりはじめた。 しばらくして、その男がこちらへ歩いてきた。四十代くらいだろうか。煤で汚れた顔に、よく手入れされた口ひげ。


「分岐弁を回したのは、君か」


「……はい」


「素手で」


 男の目がベルの左手に落ちた。腫れた手のひらを、瞬きもせずに見ていた。


「手当てを受けなさい。学生の触るものではない」


 それだけ言って、男は背を向けた。 ベルが遅刻を覚悟して歩き出したあと、男は破れた管のそばにしゃがみこんだ。裂け目の縁に、黒い欠片がひとつ引っかかっていた。歯車の歯に似た形をした、煤とは違う黒。 男は手袋の指でそれをつまみ上げ、ハンカチに包んで懐に入れた。その手が、懐中時計の上で一度止まった。 蓋の内側で、針は止まったままだった。

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