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第9話 握りの革

 左手の包帯から、石炭酸の匂いがした。


 保健室の先生は、火傷の上に黄色い軟膏を厚く塗り、ぐるぐると布を巻きながら三回ため息をついた。分岐弁を素手で回したと言ったら、四回目のため息が出た。 


放課後、ベルは校舎の裏手へ回った。 ギアは朝から口数が少なかった。昨日の夜、ステッキのない枕元をずっと見ていたのを、ベルは知っている。 中庭では下級生たちがまだ七秒の話をしていた。時計塔の鐘が割れて聞こえたとか、坂の電車で誰かが床に潜ったとか。潜ったのが誰なのかは、まだ噂になっていないらしい。


ベルは額の絆創膏を前髪で隠して、足を速めた。 裏手の道は石炭殻を敷き固めてあって、踏むたびにざくざく鳴る。油の染みた土の匂いがした。 鍛冶科の小屋に近づくにつれて、ハンマーの音が大きくなる。かん、かん。同じ高さ、同じ間隔。昨日と変わらない拍に、なぜか肩の力が抜けた。 扉を押すと、熱気と一緒に、焦げた革の匂いが顔に来た。


「遅い」


 ルストはこちらを見ないまま言った。


「お前の親父さんの工場に鋼を届けたついでに、うちの親父が第七街区を通ってな。素手で管理局の弁を回した女がいたって、夕飯のあいだじゅう話してた」


 ハンマーが止まった。ルストの目がベルの包帯に落ちた。


「……お前だろ」


「……痛くないよ、もう」


「嘘つけ」


 ルストは作業台の布をめくった。 ステッキが寝かされていた。外殻の継ぎ目が前よりも細い。拡大鏡がなくても、軸がまっすぐに通っているのがわかる。 握ってみる。 手のひらに、かち、かち、と規則正しい拍が伝わってきた。三拍止まったあの沈黙は、もうどこにもない。 右手で握りなおそうとして、指が一度、軸の上を滑った。ルストの目がそれを見ていた。


「右もか」


「こっちは、ちょっと痺れてるだけ」


「何をしたら、指先だけ痺れるんだ」


 ベルは答えなかった。ルストもそれ以上は聞かなかった。


「〇・〇八ミリ、戻した。それと」


 ルストは顎で握りの部分を指した。黒ずんだところは、預けたときのままだった。


「火傷した手じゃ金属は冷たいだろうと思って、革を巻こうとした。……巻きかけて、やめた」


「どうして」


「前の持ち主の癖が、そこに残ってる。消すのは、なんか違う気がした」


 ルストはそれ以上言わず、炉の前に戻った。 ベルは黒ずんだ握りに、包帯の上から親指を当てた。自分の指よりすこし細い誰かの形が、そこにあった。 肩の上で、姿を消したギアが、ぴくりと身じろぎした。 小屋の隅には鋼材の束が積まれていた。どれも油紙で包まれ、麻紐で縛ってある。いつもの鍛冶の材料より、ずっと数が多い。油紙の端から、鈍く青みがかった断面がのぞいていた。刃物を鍛える鋼とは、色が違う。


「親父の新しい客だ。硬い鋼ばかり、大口で入ってる。うちの炉を貸せって言うから、仕分けを手伝わされてる」


「何に使うの」


「知らねえ。親父も聞いてない。金払いのいい客は詮索しないのが、うちの流儀だ」


 ルストの言い方は、どこか自分に言い聞かせるようだった。 ルストは鞴を踏んだ。炉の奥が橙から白へ変わり、ごう、と低く吠えた。 その音が途中で裏返った。 ルストの足はもう鞴から離れていた。それなのに、鞴の歯車はひとりでに回りつづけている。回転がどんどん上がっていく。炉の炎が白を通り越して、青くなった。


「……踏んでない」


 ルストの声が低くなった。 天井から吊られた鎖が、かたかたと鳴りはじめる。煉瓦の隙間から、焦げた油のような黒い煙が漏れだした。煙は熱いはずなのに、ベルの首筋は冷えていく。 ギアが耳もとで言った。


「中にいるわ」


 炉の口から、黒い歯が一本、ゆっくりと突き出してきた。

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