第6話 光を束ねる
影の顔には、目も口もなかった。
それでも見られている、とわかった。首筋の産毛が一本ずつ逆立つ。咥えていたパンが唇から落ちて、屋上の床で乾いた音を立てた。
影がベルの足首から剥がれた。濡れた紙を床から引き剥がすような、粘った音がした。剥がれたあとの足首が、井戸水に浸けたように冷たい。
黒い靄になって、床を這っていく。向かう先は給水塔の根元、ポンプを回す歯車箱だった。靄が継ぎ目に染みこむと、中の歯車がぎゅっと悲鳴を上げた。
「シャッテンラート。形がないぶん、しつこいわよ」
「あれが止まったら」
「校舎の水が全部止まる」
ベルは鞄からステッキを抜き、眼鏡を外した。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
光と蒸気が一度に来て、次の瞬間には装甲の重みが肩に乗っていた。昨日より速い。体が手順を覚えている。
撃った。
蒸気の塊が靄を素通りして、給水塔の鉄板で砕けた。もう一発。靄は揺れもしない。
跳ね返った湯気が頬を伝った。
歯車箱の悲鳴が高くなる。
どん、と給水塔が内側から鳴った。どん。鉄板の継ぎ目が膨らみ、鋲が一本、弾けて飛んだ。
噴き出した水が屋上の床を叩き、ベルの足首を濡らす。
塔がわずかに傾いた。
この下は二年の教室だ。
足もとの床板の隙間から、椅子を引く音と、誰かの悲鳴が上がってきた。天井から水が漏れはじめたのだろう。
ベルは靄を見た。細かい。煙より、霧に近い。
霧なら、日が差せば消える。
「光だ」
けれど、変身の光は四方に散るばかりで、狙って撃てるものではなかった。
頭の中で、工房の光学実習がひらめいた。隙間を並べた板。その向こうに、一本だけ立った明るい線。
紋章の歯と歯のあいだは、隙間だ。
「ギア! 紋章、全速! 粉も全部!」
「全部って」
「全部!」
握りの奥で歯車が唸った。紋章の回転が上がり、輪郭がぼやけて一枚の円になる。そこへ金色の粉が流れこむ。
光が、細くなった。
散っていた光が回る歯の隙間をくぐり、寄り集まり、よじれて、一本の線に絞られる。白と金の線が空気に歯車模様の残像を焼きつけながら給水塔へ伸びた。
指先のすぐ前を、灼けるような熱が通った。
靄が裂けた。
じゅっ。焦げた布の匂い。
二発目。三発目。靄を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
鋲がもう一本飛ぶ。塔がさらに傾き、水の筋が太くなる。
四発目で、歯車箱の奥が見えた。
親指ほどの黒い歯車が、小刻みに身をよじっていた。
撃つ。
黒い歯車が金色に透けて、音もなく割れた。
ポンプの唸りがふっと元の低さに戻る。噴き出していた水が細くなり、止まった。傾いた塔がぎしりと一度鳴って、それ以上は動かなかった。
昼の日差しが何事もなかったように屋上の床に戻ってきた。ベルの影も足もとに戻っている。ちゃんと、ベルと同じ速さで動いた。
変身を解いた。
眼鏡をかけようとして、つるをつまみ損ねた。
指先の感覚が薄い。右手の、ガントレットから出ていた五本の先だけが、白くふやけたようになっている。つまんでも押しても、布越しに触っているような鈍さしか返ってこない。
「……光が、指のすぐ前を通ったから」
ギアの声はいつもより小さかった。
「少し休めば戻るわ。たぶん」
たぶん、と言った。
午後の授業のあいだ、ベルは鉛筆を何度も取り落とした。
放課後、鞄にステッキを仕舞おうとしたときだった。
手の中で、歯車の拍が乱れた。かち、かち、と規則正しく刻んでいた音が、かち、……かち、と間延びして、そして。
止まった。




