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第5話 影が二つ

 目覚まし時計が鳴っている。


 ゼンマイがほどけて小さなハンマーを弾き、真鍮の鐘をかんかん叩く。手探りで止めると、指先に冷えた金属が触れた。


 右手がまだ少し痺れていた。


 枕元の眼鏡をかけると、天井の木目が戻ってくる。ベッドの下をのぞけば、制服の上着にくるんだステッキがそこにあった。カーテンレールの上では、ギアが翅を畳んで丸くなっている。


 寝息に合わせて、金色の粉がひと粒ずつ床に落ちた。


 階段を下りると、台所から焦げたバターの匂いがした。母はフライパンを揺すりながら、振り向きもせずに言う。


「昨日、顔が真っ白だったよ。熱は?」


「ない。……たぶん」


「広場のほう、路面電車がひっくり返ったんだってね。あんた、あっちは通ってないよね」


「通ってない」


 トーストを齧る。蒸気で温めたミルクが喉を通り、胃のあたりでじわりと広がった。父の席は空いていて、椅子の背に油じみた前掛けだけが掛かっている。


 夜明け前から工場に出ているのだろう。前掛けからは機械油と鉄粉の匂いがした。


 奥の部屋から、祖母の鼻歌が聞こえた。ベルが小さいころから、祖母が針仕事をするたびに口ずさんでいた古い歌。歯車の歯を一枚ずつ数えていくだけの、節の短い歌だ。


 通学路はいつもの道を避けられなかった。


 広場には縄が張られ、管理局の紺の外套が何人も行き来していた。傾いた路面電車を、蒸気クレーンが軋みながら吊り上げている。


 石畳のあちこちが皿のように割れ、焦げた鉄の匂いがまだ残っていた。


 ベルは縄の手前で足を止めた。


 昨日、黒い粒が沈んだあたり。石畳の継ぎ目に、指一本ぶんの細い亀裂が走っていた。亀裂の縁だけが霜が降りたように白い。


 しゃがんで手をかざすと、そこだけ冷たい空気が這い上がってきた。


「行きましょう」


 鞄の中から、ギアが小声で言った。いつもより早口だった。


 学校は広場の話でもちきりだった。


「見た? 空が金色になったの」


「黒いのが崩れたんだって。羽の生えた女の子がやったって」


「嘘だあ」


 ベルは自分の席で教科書を開き、同じ行を三回読んだ。誰もこちらを見なかった。肩に入っていた力が、少しだけ抜けた。


 二時間目は機構学だった。黒板に、白墨で大きな歯車が描かれる。粉が舞い、窓からの光の中でゆっくり沈んでいった。


「接合角度の標準は? クロックワーク」


 不意に名前を呼ばれて、椅子がきしんだ。


「……七十度、です」


「そうだ。千年前、大時計を設計した者たちが定めた角度だ。この街のすべての歯車は、それに倣っている」


 先生は満足げに頷き、次の問いに移った。


 ベルは教科書の陰で、ノートの隅に書きつけた。〈45°で停止 隣の街歯車、三枚破断〉。少し考えて、その下に書き足す。


 〈45°=?〉


 昼休み、屋上。給水塔の陰に座って、紙袋からパンを出す。春先の風はまだ冷たく、煙突の煤がときどき頬に当たった。


「昨日みたいなの、また出るの?」


 肩の上のギアに聞いた。


「出るわよ。大きいのは週に一度か二度。小さいのは毎日、どこかで」


「毎日……」


 パンを飲み込む。味がしなかった。


「ねえ。どうして私なの」


 ギアはすぐには答えなかった。翅を一度だけ開いて、閉じた。


「手が合ったから」


「手?」


「ステッキが、あなたの手で回ったでしょう。それだけよ」


 ギアは、翅の先で、ベルの指をつついた。


「勘違いしないでね。魔法なんて、大したものじゃないの。ステッキが歯車を直すんじゃない。直すのは、あなたの手。ステッキは、その手を、あの大きさまで届かせるだけ」


 それだけ、と言うわりに、ギアはベルの顔を見なかった。給水塔の向こうの時計塔を見ていた。


 風が止んだ。


 煙突の煙がまっすぐ上に立つ。屋上の床に落ちた給水塔の影が、濃くなった、と思ったら、二枚に重なっていた。


 ギアの翅が金色から橙に変わった。


「来たわ。昨日のとは違う」


 ベルはパンを咥えたまま立ち上がった。


 足もとに自分の影がある。昼の太陽に押しつぶされた、短い影。


 その影だけがひと呼吸遅れて立ち上がった。


 ベルが動けずにいるうちに、影の頭がゆっくりと、こちらへ振り向いた。

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