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第4話 噛み合う音

 隙間が閉じきったら、出口はない。


 わかっていてもベルは紋章を離さなかった。離せば、七十度のまま閉じこめられるだけだ。


 両足で軸の根元を踏んばる。ブーツの底が黒い表面で滑り、きゅっと嫌な音を立てた。腕の骨が軋んでいるのが、自分でわかる。


 紋章の歯と軸の歯は、指一本ぶんの角度も動かない。


「力じゃ無理よ!」


 ギアの声が暗がりに反響した。


「千年……ずっと、その角度で回ってきたの。腕で押したって戻らない」


「じゃあ、どうすれば」


 答えは返ってこなかった。


 光の筋がまた一本消える。暗くなるほど、唸りは大きくなった。耳の奥で鳴っていたはずの音が、今は歯の根元から響いてくる。


 空気が熱い。錆びた鉄を舐めたような味が、舌の奥にこびりついていた。額から流れた汗が眉を越え、目に染みる。


 ベルは電車の床下の爪車を思い出した。七十度ではいくら押しても空転した。レンチで寝かせた瞬間、向こうから索に噛みにきた。


 力で越えた覚えはなかった。あのとき蓋の下には、車内の全員の重さが乗っていた。


 押すのをやめた。


 紋章を、ほんのわずか寝かせる。軸の歯の背に沿わせて、滑らせるように。指先だけで角度を探る。


 六十度。まだ硬い。五十度。


 ステッキが熱くなった。


 握りの黒ずんだところから、手のひらに熱が流れこんでくる。紋章が内側から光りはじめた。蒸気の白より濃い、金色の光。


 握った手のひらが、脈を打つように熱い。


 父の工場の、あの柱時計の音が耳の奥で鳴った。朝になると父がネジを巻き、夜にはベルが耳を当てて眠った音だ。


 四十五度。


 がちん、と重い音がした。


 紋章の歯が軸の歯に噛み合った。金色の光が軸を伝って走り、黒い表面に細い線を描きながら四方へ広がっていく。歯の一本一本が内側から金色に透けた。


 回転が止まった。


 唸りが途切れる。代わりに、骨の奥まで沈んでいくような静けさが来た。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。


 次の瞬間、足もとの軸にひびが走った。


「離れて!」


 翼が勝手に回った。体が後ろへ引かれ、閉じかけていた隙間を肩ごと突き破る。外の空気は赤から橙に変わっていた。


 冷たい風が汗を一気に奪い、首筋が粟立った。


 振り返ると、黒い歯車が崩れていくところだった。


 新しい角度に耐えられなかった歯が、隣の歯とぶつかって折れる。折れた歯がさらに次の歯を折る。黒い破片は石畳に落ちる前に金色の粒になってほどけ、ゆっくりと空へ昇っていった。


 広場が金色の粒で満ちた。


 倒れた街灯の硝子がそれを受けて光る。歪んだレールの上を、光の粒が転がっていく。逃げ遅れて座りこんでいた老人が、口を開けたまま空を見上げていた。


 どこかの窓から、止まっていた蓄音機がひと節だけ鳴って、また黙った。


 ベルは石畳に降りた。膝が勝手に折れた。


 膝をついた先で、割れた石畳の奥がのぞいていた。街の歯車が一枚、歯の抜けた口で回っている。根元から折れた歯が三枚。


 黒い歯車が四十五度に倒れたとき、噛みあっていた側が耐えきれなかったのだ。


 変身がほどけ、装甲が光になって散る。制服の膝に、石の冷たさが直に来た。ステッキを握った右手が、今ごろになって震えだした。


 その手の中で、ステッキの歯車が、かち、と拍を外した。


 ベルは空を見ていた。


 昇っていく金色の粒のなかに、一粒だけ、色の変わらないものがあった。黒い粒はほかの粒とは逆に、ゆっくりと沈んでいく。石畳の継ぎ目に触れて、音もなく吸いこまれた。


 瞬きをしたあとには、もうどこにも見えなかった。


          ◇


 時計塔の上、四面の文字盤の裏に渡された足場に、男がひとり立っていた。


 外套の裾が風に鳴っている。男は広場を見下ろしたまま、懐から懐中時計を取り出し、親指の爪で留め金を弾いて蓋を開けた。鎖が、ちり、と鳴った。


 針は動いていなかった。


 文字盤のガラスに金色の粒がひとつ映って、消えた。


「……四十五度、か」


 男は蓋を閉じ、踵を返した。

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