第3話 七十度
跳んだ、というより、背中に引っぱられた。
六枚の歯車翼が勝手に回転を上げ、蒸気がベルの体を横へ弾き飛ばす。一瞬前まで立っていた床に黒い歯が突き刺さり、石畳が皿のように割れた。破片が頬を掠める。
熱い、と思ったのが先で、痛みはあとからじんと来た。
転がって、棚にぶつかって止まった。部品の山が崩れ、真鍮の小片が雨のように降ってくる。
「立って! 次が来る!」
天井の穴の奥で、もう一本の歯が角度を変えた。
ベルは壁の亀裂に肩から突っこんだ。崩れかけた石が装甲に当たってがらがら鳴り、次の瞬間、夕方の外気が顔を打った。煤と焦げた鉄の匂い。
遠い悲鳴。地面の下から這い上がってくる低い唸り。
走った。
校舎の裏手から坂を下り、逃げてくる人の流れに逆らって、荷車の脇をすり抜け、子供を抱えた女の肩をかすめ、ブーツの底が石を蹴るたびに脛の蒸気管がしゅっと鳴るのを聞きながら、広場へ続く石畳を駆け下りた。
広場に出た。
足が止まった。
でかい。
黒い歯車は広場の半分を覆い、時計塔の影と重なっていた。歯が地中の歯車に食いこむたび、地面そのものが悲鳴を上げる。傾いた路面電車から、千切れた駆動索が垂れて揺れていた。
その電車の陰に、男の子がひとり座りこんでいた。
膝を抱えて、動かない。頭上で、黒い歯が一本、軋みながら持ち上がっていく。
ベルは考える前に走っていた。石畳を三歩で蹴り、男の子の襟首をつかんで抱えこみ、そのまま電車の反対側へ転がりこむ。背後で車体がひしゃげる音がした。
窓硝子が一斉に割れ、光る破片が雨のように降ってくる。
「お母さんは!」
男の子が震える指で広場の端を差した。女の人が両手を口に当てて立っている。
ベルは男の子を立たせ、背中を押した。小さな靴音が遠ざかっていくのを、振り返らずに聞いた。
ステッキを突き出す。蒸気の塊が飛び、黒い歯にぶつかった。
散った。
もう一発。手首まで痺れる反動が来て、白い靄が風に流れただけだった。
「蒸気じゃ無理!」
ギアが肩に降りてきた。
「見なさい。あなたの目で!」
見上げた。
その視界を、黒い歯が塞いだ。
真上から来る。ベルは石畳を蹴って横へ転がった。背中のすぐ後ろで地面が弾け、砕けた敷石が装甲を叩く。
転がりながら、目だけは離さなかった。
いま振り下ろされた歯の付け根。地中の歯車に噛みこむ瞬間の、その傾き。
先に動いたのは指だった。ステッキを握った右手の人差し指が、何かを測るようにぴくりと跳ねた。
「……七十度」
今朝、止まった索の上で空しく滑っていた角度。
急すぎて、滑れない。だから砕く。
「四十五度に倒せば、止まる」
ギアがほんの一瞬だけ黙った。
「……中心軸は、あの中よ」
何十本もの歯が絡みあった奥に、一本だけ太い軸が見えた。そこだけ回転が重い。走って届く高さではない。
「ギア」
「わかってる!」
金色の粉が背中に降り注いだ。翼が甲高く唸り、蒸気を巻きこんで体が浮く。
石畳が遠ざかる。
風が頬を叩く。黒い歯と歯の隙間が、目の前でみるみる大きくなる。
肩が歯に擦れた。火花。金属の焼ける匂い。
抜けた。
暗い。外の赤い光が隙間から細く差しこむだけで、あとは黒い。空気が重く、唸りが耳の奥で直接鳴っている。
目の前に中心軸があった。
紋章を押し当てる。
動かない。
七十度で噛んでいる歯を、四十五度へ倒す。腕が震える。肩が軋む。
紋章と軸のあいだで、何かが擦れて甲高く鳴った。
背後で、音がした。
振り返る。いま抜けてきた隙間が、ゆっくりと閉じていく。
赤い光の筋が、一本、また一本と消えていった。




