第46話 歌を図面に
夕飯の皿が片づいたあとも、ベルの家の居間には、人が多すぎた。
祖母は揺り椅子に。フェーダーはストーブの前の床に、オルガンを抱えて。ルストは戸口の柱にもたれて、紅茶で濡れた袖をまだ気にしている。父は工場へ戻り、母は全員ぶんの紅茶を淹れなおして、台所へ引っこんだ。
祖母が、歌った。
しわがれた、小さな声だった。けれど節は一音も迷わなかった。ひとつ目の歯車、ふたつ目の歯車。数える言葉が短い旋律に乗って続いていく。
フェーダーは目を閉じて聞いていた。祖母が一節歌い終えるたびに、オルガンの鍵をひとつ押さえる。音は出さずに、指の位置だけを確かめる。
「……やっぱり」
フェーダーが目を開けた。
「言葉が数を言ってるんじゃない。音の高さが、数なの」
「高さ?」
「ひとつ目の歯車の節、いちばん高い音がラ。ふたつ目は、ミ。リーゼさんは、歯の数を音の高さに置き換えて、歌にしたんだと思う。言葉は、それを覚えるための飾り」
フェーダーは紙に線を引きはじめた。五本の線。その上に、祖母の歌の音を、一つずつ置いていく。置いた音の横に数字を書く。
「ラは、四十四。ミは、三十三。……違う、ミは三十。高さの比が、そのまま歯の比になってる」
ベルはフェーダーの手もとを覗きこんだ。音符が数字に変わっていく。数字が並ぶと、それは歯車の列になった。
四十四、三十、五十二、三十六。
ベルは頭の中でそれを噛み合わせた。四十四の歯車が一回転すると、三十の歯車は一回転と、ほぼ半分。むらを吸う比率だった。ステッキの中の四十三、四十五、四十七と同じ考え方の、もっと大きな版だった。
「……合ってる」
ベルの声が、震えた。
「これ、合ってるよ。噛み合う」
祖母が最後の一節を歌った。
そこで、声が途切れた。いつもと同じところで。
「ここまでよ」
祖母は言った。
「母さんが知っていたのは、ここまで」
フェーダーの紙の上で、数字の列が、最後の一枚の手前で止まっていた。
最後の歯車は祖母の歯車だとわかっていた。四十五枚。それが噛みあう相手、大時計の心臓の歯車の歯の数だけが、どこにもない。
「心臓の歯車を、誰か数えたことは」
ルストが言った。
「管理局の図面にも、ない」
ベルはヘルマンの広げた断面図を思い出していた。心臓部のいちばん奥だけが、空白になっていた。
封印の扉の、向こう側だから。
「数えに行かなきゃ」
ベルは言った。
「扉の向こうに」
誰も、返事をしなかった。
ストーブの薪が崩れて、火の粉が小さく跳ねた。
ルストが柱から背を離した。
「その前に、ひとつ」
ルストは上着の内側から、布にくるんだ細長いものを出した。作業台で見たことのない形だった。細い鋼の針が一本。根元に、手首に巻くための革の帯がついている。
ルストはベルの前にしゃがんだ。
「お前の指は、直せない。撤回はしない」
ルストは革の帯をベルの左手首に巻いた。針の根元の小さな鋼の座が、手首の骨の、いちばん浅いところに当たるように。
「だから、指のいらない道具を作った。針の先で歯に触れれば、振動が座から骨へ行く。ヘルマンに呼ばれた日、工房の戸口で見た。お前が、手首に歯車を当ててるのを」
ベルは針の先を祖母の歯車に当てた。
ち。
骨に歯の形が来た。指で触れていたころよりも、はっきりと。
ベルは何か言おうとして、言えなかった。
ルストは立ち上がって、また柱にもたれた。
「……数えに行くんだろ。だったら、手ぶらじゃ行かせない」




