第47話 歯車祭り
「明日は、休め」
ルストはそう言い張った。
「親父が配合を決めるのに一日、炉を温めるのに一日かかる。お前が工房にいても、することはない」
「でも、二十日しか」
「だから休めって言ってるんだ。倒れられたら、誰が歯を聞く」
フェーダーが横から口を挟んだ。
「明日、運河の歯車祭りだよ」
ベルはその言葉を聞いて、ようやく思い出した。一年に一度、運河沿いに屋台が並び、夜には歯車の灯籠が水に浮かぶ祭り。小さいころは毎年、父と来ていた。ここ数年は工房にこもって、一度も行っていなかった。
「……行く」
ベルは言った。言ってから、自分で少し驚いた。
◇
夕方の運河沿いは、人でいっぱいだった。
屋台の軒先に、真鍮の風車がくるくる回っている。焼き林檎と、揚げ菓子と、蒸気で蒸した腸詰めの匂い。子供たちがぜんまい仕掛けの小さな船を運河に浮かべて、岸辺を走って追いかけていく。
人混みの中で、ベルは何度も肩をすくめた。
すれ違う人がときどき振り返る。ひそひそと、何か言う。市場通りの一件から、ベルの顔を知っている人は、少しずつ増えていた。
「魔法少女のお姉ちゃんだ!」
どこかの子供が叫んで、母親に口を塞がれた。
ベルはルストの背中に隠れた。
「隠れても、でかいのは俺だけだぞ」
「わかってる」
「わかってるなら、前に出ろ」
「無理」
フェーダーがくすくす笑いながら、ベルの腕を取った。
「あれ、やろう。金魚歯車すくい」
屋台の水槽に、小さな真鍮の歯車が浮かんでいた。どれも金魚の形に打ち抜かれていて、底に仕込まれた小さなぜんまいで、ゆらゆらと水の中を泳いでいる。薄い紙を張った丸い枠で、すくう遊びだった。
小さいころ、ベルはこれが得意だった。歯車の泳ぐ癖を読んで、紙が破れない角度で、すっと。父がいつも、屋台の親父に苦笑いされていた。
銅貨を一枚払って、枠を受け取った。
右手で持つ。 水面に枠を差し入れる。金魚歯車がゆらりと寄ってくる。今だ、と思って、枠を傾ける。
紙が、破れた。
水の重さがわからなかった。紙がどれだけたわんでいるのか、指に来ない。 もう一枚。今度は左手で。
左手の指先も、もう、遠い。枠の縁を握っている感触はあるのに、紙に水が乗った瞬間が、わからない。 破れた。 三枚目も。
ベルは破れた枠を持ったまま、水槽の前にしゃがみこんでいた。
金魚歯車がゆらゆらと、ベルの目の前を泳いでいく。
小さいころはあんなに簡単だったのに。
「……貸せ」
ルストが隣にしゃがんだ。銅貨を一枚置いて、枠を受け取る。
「どれだ」
「え」
「どれが欲しいんだ。一匹だけな」
ベルは水槽の中を見た。
いちばん隅で、少し傾いて泳いでいる一匹がいた。ぜんまいの軸がほんの少し曲がっている。
「……あれ。傾いてるやつ」
「なんで、わざわざ壊れかけを」
「直したいから」
ルストは口の端だけで笑った。
それから、大きな手で、驚くほど静かに枠を水に入れた。鍛冶場で焼けた鋼を扱うときと同じ、無駄のない手つきで。
傾いた金魚歯車が、枠の上に乗った。
紙は破れなかった。
屋台の親父が口笛を吹いた。
ルストは紙の袋に入れてもらった金魚歯車を、ベルの手のひらに載せた。袋の中で、水が揺れる。その重さは手のひらにではなく、手首に来た。
「ほら」
「……ありがとう」
「礼なら、そいつを直してから言え」
そのとき、運河の向こうの舞台から、呼び出しの声が響いた。
祭りの開幕を告げる、蒸気のラッパ。舞台の袖に、燕尾服の楽師たちが並んでいる。
司会の男が紙を読み上げた。
「毎年恒例、祭りの幕開けは、大時計の鐘を守るクラング家より——」
フェーダーの足が、止まった。
「——ご息女、フェーダー・クラング嬢の独唱です!」




