第45話 三人の夕飯
食卓の椅子が、足りなかった。
母は物置から丸椅子を二脚出してきて、雑巾で埃を拭いた。父は工場から戻ってくるなり、食卓を見て、戸口で足を止めた。
「……今日は、何かの日か」
「ベルのお友達」
母が鍋を運びながら言った。
「フェーダーちゃんは、しばらくうちに泊まるの。こっちはルストくん。鋼屋さんの息子さん」
「知ってる」
父はルストを見た。ルストは椅子から半分腰を浮かせて、固まっていた。
「親父さんの足は、どうだ」
「……骨が、二か所。春までには」
「そうか。あの人の鋼は、いい鋼だ。早く戻ってもらわんと、こっちが困る」
父はそれだけ言って、上座に座った。ルストは腰を浮かせたまま、しばらく下ろしどころがわからないようだった。フェーダーが隣で小さく吹き出した。
鍋の蓋を開けると、湯気と一緒に、玉ねぎと燻製肉の匂いが立ちのぼった。母の、いちばん得意なスープだった。
フェーダーはスープの皿を両手で包んで、しばらく湯気を見ていた。
「……いただきます」
小さな声だった。
ひと口すすって、フェーダーは、急にうつむいた。黒髪が皿の縁にかかった。
食卓が静かになった。
母が何も言わずにパンの籠をフェーダーのほうへ押した。祖母は自分のスプーンを置いて、フェーダーの背中に手を当てた。父は天井を見ていた。
「……ごめんなさい」
フェーダーが顔を上げずに言った。
「うちは、夕飯のとき、誰もしゃべらなかったから。父さんは音叉を磨いてて、母さんは楽譜を見てて。こんなに、うるさいの、初めてで」
「うるさいのよ、この家は」
祖母が言った。
「慣れなさい。ずっといるなら」
フェーダーは頷いた。何度も。
パンをちぎって、スープに浸した。
◇
「それで」
父が二杯目のスープを受け取りながら言った。
「三人で、何を作ってるんだ。工房のガス代が、先月の倍だと学校から手紙が来たぞ」
三人の手が同時に止まった。
ベルはスプーンをくわえたまま固まった。ルストはパンを喉に詰まらせかけた。フェーダーは目を皿の底に落とした。
二十日。大時計の心臓。四十五度の列。まだ、父には何も話していなかった。
「……課題」
ベルは言った。
「歯車の、課題」
「三人でか」
「共同、課題」
父はベルの顔を見て、ルストの顔を見て、フェーダーの顔を見た。
黙って、スープをすすった。
「そうか」
それ以上、父は何も聞かなかった。母が父の見ていないところで、ベルにだけ、小さく眉を上げてみせた。
◇
皿が片づくと、フェーダーが言った。
「ねえ、ベル。おばあちゃんの歌、ベルも歌える?」
「え」
「解読するなら、何回も聞きたいの。おばあちゃんに、何十回も歌わせるわけにいかないでしょう」
ベルは、困った。
歌える。節は全部覚えている。小さいころから、祖母の鼻歌で聞いてきた。
「……歌えるけど」
「歌って」
ベルは、息を吸った。
ひとつ目の歯車、と歌いだした。
ルストが口に含んだ紅茶を、噴いた。
フェーダーの目が、まんまるになった。
父が椅子の上で体をひねって窓の外を見た。肩が小刻みに揺れていた。
ベルはふたつ目の歯車まで歌って、やめた。
「……なに」
「ベル」
フェーダーは口もとを両手で押さえていた。笑いをこらえて。
「今の、ぜんぶ、違う」
「違わないよ。節は合ってる」
「節は合ってる。音が、ぜんぶ、半音ずつ、ばらばらにずれてる。ひとつも、同じ方向にずれてないの。わざとやっても、そんなふうにはならないよ」
「歯車の音程なら、わかるもん」
「歯車の音程は、歯車にしか通じないの!」
フェーダーが声を上げて笑った。
テーブルに突っ伏して、肩を震わせて、涙まで出して。家を出た夜から、一度も聞いていなかった笑い声だった。
ルストも、紅茶で濡れた袖を拭きながら、笑っていた。母も。父も、もう窓の外を見るのをやめて、笑っていた。
ベルは頬をふくらませた。ふくらませたまま、つられて、笑ってしまった。
祖母が揺り椅子の上で、やわらかく咳払いをした。
「……私が、歌うわ」
祖母は膝の上で指を組んだ。
「ちゃんとした音で。最初から」




