第44話 心臓の一枚
ルストは、工房の戸口で一度立ち止まってから、入ってきた。
ベルと目が合って、逸らした。楔の夜から、二人はまだまともに口をきいていなかった。
フェーダーはその後ろから入ってきた。クラングの家を出た夜から、ベルの家の客間で寝起きしている。祖母が寝台を整えたのだ。
工房の作業台を囲んで、四人が立っていた。
ルストは腕を組んで壁にもたれ、フェーダーはオルガンを膝に抱えて旋盤の縁に腰かけている。ヘルマンは作業台の上に、巻いた図面を広げた。四隅を、ベルの工具で押さえる。
大時計の断面図だった。
最下段の歯車に、赤い印が十七、並んでいた。
「一晩で、さらに二枚欠けた」
ヘルマンは印の端に指を置いた。
「十九枚。この速さなら、残りは二十日前後だ。私の計算が甘ければ、もっと短い」
「……二十日」
フェーダーがつぶやいた。
「二十日で、何ができる」
ヘルマンは、ベルを見た。
「君は、七十度を四十五度に直せと言った。百万個の歯車を、二十日で。できるのか」
「できません」
ベルは言った。ヘルマンの眉がわずかに動いた。
「百万個は、直せません。でも、百万個を直す必要はないと思うんです」
ベルはステッキを図面の上に置き、外殻を開いた。五つの歯車。
「ルスト、この噛み合いの角度」
「四十三、四十五、四十七」
ルストが即座に答えた。
「回転のむらを逃がすために、一段ずつ変えてある」
「むらを逃がすんです」
ベルは図面の大時計の心臓部を指でなぞった。
「街の歯車が砕けてるのは、七十度だからだけじゃない。心臓から出てくる拍に、むらがあるからです。すり減った七十度の歯が、滑れずに引っかかって、そのたびに、がつん、って。それが百万個に伝わって、弱いところから砕ける」
ヘルマンは黙って聞いていた。
「だから、心臓の出口に、一段だけ噛ませるんです。四十五度の歯車の列を。むらを吸って、なめらかな拍だけを外へ流す。そうすれば、街の七十度は、今のままでも砕けない」
ベルはステッキの隣に、祖母の歯車を置いた。
「百万個じゃない。心臓の一枚だけ」
工房が静かになった。
ガス灯のシャッターが、かちりと動く音がした。
「……このステッキは」
ヘルマンが言葉を選ぶように言った。
「それの、雛形か」
「百年前の人が、作ったんだと思います。大時計を直すための、小さな見本を」
ヘルマンはステッキの歯車に顔を近づけた。口ひげの端がかすかに動いた。
「理屈は、わかる」
やがて言った。
「だが、設計図がない。歯の数も、段の数もわからない歯車の列を、二十日で鋳造して、あの心臓に嵌めこむと言うのか。街を賭けて」
「歯の数は、わかります」
フェーダーがオルガンの鍵に指を置いた。
「歌が、あるから」
ヘルマンはフェーダーを見て、それからベルを見た。
懐中時計を取り出して、蓋を開けた。針は止まったままだった。
「弟は、延命の途中で死んだ」
ヘルマンは止まった針を見つめたまま言った。
「私は、延命をやめて、眠らせる道を選んだ。君たちは、延命ではなく、直すと言う」
ヘルマンは時計の蓋を閉じた。
「証明してみせろ。二十日だ」
外套の裾をひるがえして、扉へ向かう。取っ手に手をかけたところで、ヘルマンは立ち止まった。
「二十日を一日でも過ぎたら、私はもう一度、楔を打つ」
振り返らなかった。
「今度は、扉の向こうのあれごとだ」




