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第43話 骨で聞く

 大時計が止まっていたのは、十四分だった。


 翌朝の新聞は一面にその数字を載せた。施療院は前の晩のうちに移されていて、死んだ人はいなかった。電車は最終で止まっていた。ヘルマンの計算が、街を守った。そのことを書いた新聞は、一紙もなかった。


 学校へ向かう道で、人々は立ち話をしていた。電車が動いた、止まった、また動いた。十四分のあいだ、昇降機に閉じこめられた。窯の火が落ちて、朝のパンが全部だめになった。誰もが自分の十四分の話をしていた。


 時計坂を登る電車の窓から、時計塔が見えた。文字盤の針は何事もなかったように回っている。その下の地面の、ずっと深いところで、一人の少女がまだ手を当てていることを、この電車の誰も知らない。


 放課後、ベルは、工房の作業台に、祖母の歯車を置いた。


 親指の先ほどの、曇った真鍮。四十五枚の歯。


 左手の指先で、歯の一枚に触れた。 遠かった。


 手のひらの黒い痕は、朝になっても消えていなかった。皮膚の下に沈んだまま、指の付け根から先へ、薄く滲んでいる。触れているのはわかる。けれど、歯の角が尖っているのか、丸いのか、そこまでは届かない。右手はもう最初から何も届かない。


 右の手のひらには、雨の夜の傷に巻いた包帯が、まだ残っている。歯の形に三つ、赤い線が透けていた。そこが痛まないことにも、もう慣れはじめていた。


 ベルは歯車を握りしめた。


 昨日の夜までは、この左手で、四十五枚を数えられたのに。


「……ベル」


 梁の上から、ギアが降りてきた。四枚の翅は昨夜から光が弱かった。


「数えられない」


 ベルの声は自分でも驚くほど平らだった。


「私、もう、歯車の歯を数えられない」


 ギアは黙ってベルの肩に降りて、首すじに体を寄せた。小さな体が温かかった。 眼鏡がずり落ちてきた。


 ベルはいつもの癖で、左手首の内側でそれを押し上げた。


 手首の骨が眼鏡のつるに当たった。つるの蝶番の、小さなねじの頭。その硬さが骨にこつんと響いた。


 ベルは動きを止めた。 指先には何も届かないのに、今のは、わかった。


 ベルは歯車の軸をつまみ、手首の内側の、骨がいちばん浅いところに押し当てた。それから右手の爪で、歯を一枚、弾いた。


 ち、と小さな音。 その震えが軸を伝って、手首の骨に来た。骨から肘へ、肘から肩へ。細い振動が体の中を上ってくる。


 尖っていた。一枚目の歯の先は、わずかに欠けていた。 指ではわからなかったことが、骨でわかった。


 二枚目を弾く。ち。三枚目。ち。欠けていない。まっすぐ。四枚目。ち、の響きが、ほんの少し短い。歯の背が髪の毛一本ぶん削れている。


 ベルは息をするのを忘れていた。


 四十五枚。数え終えたとき、額に汗が滲んでいた。指で数えたときよりも、ずっとたくさんのことがわかった。どの歯が欠けて、どの歯が削れて、どの歯が、百年前のまま、まっすぐなのか。


「……あの子も」


 ギアの声が耳のすぐそばで震えた。


「最後のほうは、そうやってた。手首に当てて、骨で聞いてた。指が、もう冷たかったから」


 ベルは手首から歯車を離した。


 指は戻らない。わかっていた。


 それでも、手首にはまだ四十五枚の響きが残っていた。同じ角度で切られた歯なのに、一枚ずつ違った。欠けたもの。削れたもの。まっすぐなもの。


 角度は、一か所だけ見て決めるものではない。


 機構学の教室で、先生はそう言った。模型を抱えて廊下に立たされたとき、負けた、と思った言葉だった。


 ベルはステッキの外殻を開けた。五つの歯車。四十三、四十五、四十七。鍛冶小屋でルストが読み上げた数だった。全部を四十五度にしてあるわけではなかった。


 握りを手首に当て、軸を爪で弾く。拍が三つの段を順に渡って、骨に来た。入ってきたときに角ばっていた震えが、出ていくときには丸くなっていた。


 百万個を、一つずつ寝かせなくていい。


 むらが生まれるところで、一度だけ受ければいい。


 鉛筆を右手で握ると、芯が紙の上で滑った。左手に持ちかえる。ノートの隅に、震える字で書きつけた。〈心臓の出口 一段だけ〉 工房の扉が、鳴った。


 革の手袋の拳で、一度、硬く叩かれた。


 扉の向こうに、紺の外套が立っていた。ヘルマンの目の下は、煤を塗ったように黒かった。一晩、眠っていない顔だった。


「話がある」


 ヘルマンはベルの左手を見た。黒い痕を。


「君の仲間も、呼んでくれ。ひと月のうちの一日を、無駄にしたくない」

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