第42話 止まった街
かん。
ハンマーが打ったのは、楔の尻ではなかった。
楔を支える、留め金だった。
鋼の頭が弾け飛ぶ。支えを失った楔が、ぐらりと横に倒れた。
抜けるはずだった。
倒れた刃の先が、歯と歯のあいだに、斜めに挟まった。つっかえ棒のように。
大時計が、止まった。
こつん、が、消えた。
空洞じゅうの歯車が、同時に動きを止めた。唸りが途切れ、空気が、耳が痛くなるほど静かになる。ランタンの炎だけが、何事もなかったように揺れていた。
地上で、何が起きているのか、ベルにはわかった。
電車も、街灯も、病院のポンプも、運河の水門も。百万個の歯車がひとつ残らず。 あの朝の七秒とは違う。今度は戻ってこない。
空洞の奥で、何かが軋んだ。
止められた最下段の上から、回りつづけようとする上の段の重みが、のしかかってくる。挟まった刃の両側で、七十度の歯が一枚、また一枚と、悲鳴を上げて欠けていく。
砕ける。
黒い少女が、動いた。
ステッキを床に落とし、楔の刃が噛んだ歯車に、両手を当てた。手のひらをぴたりと。
黒い光が少女の手から歯車へ流れこんでいく。軋みがわずかに鎮まった。
少女の体の輪郭が、ほどけはじめた。
足もとから。黒い光が這い上がるように。
ベルはその光景を見たことがなかった。見たことがないのに知っていた。
手を離したら、戻る。 ベルはステッキを床に置く。
少女の隣に並び、歯車に、左手を当てた。右手はもう、何も感じない。だから、左手で。
冷たかった。鉄の冷たさとは違った。百年分の夜が手のひらから流れこんでくる冷たさだった。
「ルスト!」
叫んだ。
「楔、抜いて!」
足場の上で、ルストがハンマーを握りなおした。飛び降りる。挟まった刃の脇へ走り、刃と歯のあいだの一点を睨んだ。片目をつむる。つっかえ棒がいちばん浅く噛んでいるところ。
叩く。かん。
刃が、揺れる。
叩く。かん。叩くたびに角度をずらし、挟まった刃を、横から少しずつ叩き出していく。雨の軒下で、曲がった軸を叩き直したときと同じ拍で。
フェーダーが、歌っていた。
空洞の入口で、オルガンを抱えずに、声だけで。歯車の歯を数える歌を。揺れる声で。その歌が止まった空洞に満ちていく。
黒い少女の唇が、動いた。
歌に合わせて。声は出ていなかった。一音も外さずに、唇だけが、節をなぞっていた。
ベルの左手の下で、歯車が、震えた。
かん。
ルストの最後の一打で、楔の刃が、歯車の隙間から抜け落ちた。
巨大な鋼の塊が床に倒れ、空洞じゅうに轟音が走った。
そして。
こつん。
足の裏に、拍が戻ってきた。
こつん。こつん。歯車がひとつ、またひとつと回りはじめる。唸りが戻る。ランタンの炎が風を受けて傾いた。
ベルは歯車から手を離した。
隣で、黒い少女も、手を離していた。輪郭が腰のあたりまでほどけかけて、そこで止まっていた。
少女が、ベルを見た。
黒い渦の奥で、眼鏡の縁が光った。唇が動いた。今度は声があった。かすれて、細くて、ベルの声によく似た声。
「……マルタ?」
ベルは答えられなかった。
少女は首をかしげた。それから、床のステッキを拾い上げ、扉の奥の闇へ、歩いて戻っていった。一度も振り返らずに。
青銅の扉が内側から閉じた。
空洞に、拍だけが残った。
ヘルマンが倒れた楔の脇に膝をついていた。懐中時計を見下ろしている。止まった針。
やがて、ヘルマンはランタンを掲げて、最下段の歯車を見上げた。刃が挟まっていた場所の両側で、歯が、櫛の欠けたように抜け落ちている。
ヘルマンの唇が、声を出さずに数を数えた。
「……十七枚」
誰に言うでもない声だった。
「七十度の歯は、この街ではもう鋳造できない。欠けたぶん、残りの歯に重みがかかる。一枚欠ければ、次の一枚が早く欠ける」
ヘルマンは閉じた青銅の扉を見た。
「あれが先に手を離すか、大時計が先に砕けるか」
留め金を親指の爪で弾く。ちり、と鎖が鳴った。
「ひと月は、もたない」
ハンマーを下げたルストの前で、ヘルマンは立ち止まった。
「なぜ、留め金を打った」
「……尻を打てば、あいつらの紋章ごと、刃が奥へ入る。留め金を飛ばせば、倒れて抜けると思った」
ルストはそれだけ言った。ハンマーを握った手の包帯から、血が一滴、床に落ちた。
ヘルマンはその手を長く見ていた。やがて、止まった懐中時計を懐に戻した。
ベルは自分の左手を見た。
手のひらが黒く染まっていた。煤でも油でもない。歯車に当てていたかたちのまま、手のひらの真ん中から指先まで、黒い光の痕が、皮膚の下に沈んでいた。
握った。
指先が、遠かった。




