↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/49

第41話 楔

 下りの三百十二段は、上りより長かった。


 鐘楼の揺れで、手すりの鋲がいくつも抜けていた。ベルは左手で壁を探りながら、フェーダーの手を引いて駆け下りた。塔の基部の搬入口では、門番の男たちが姿を消していた。錆びた扉が半開きのまま、下からの熱い風に揺れていた。


 地下の空洞は、熱かった。


 溶接の火があちこちで青白く燃えている。楔の巨大な刃先は、大時計の最下段の歯車の隙間に、半分まで食いこんでいた。刃が歯を押し広げるたび、空洞じゅうの歯車が低く軋み、拍が、つまずきながら刻まれる。


 こつん。……こつん。こ、つん。


 楔の尻に組まれた足場の上に、ルストが立っていた。


 灰色の作業着の袖を肘までまくり、両足を開いて、ハンマーを肩の上に構えている。赤毛が汗で額に貼りついていた。その下で、ヘルマンが懐中時計を開いていた。


「あと一打」


 ヘルマンの声が、空洞に響いた。


「零時と同時に打て。上の鐘は、もう当てにならない」


 ベルは柱の陰から飛び出す。フェーダーがオルガンを抱えて後に続く。


 足場の手前で、灰色の作業着の男がひとり、ベルの前に立ちふさがった。帳面を胸に抱えている。封鎖線の日、名簿をめくって青ざめていた男だった。


「行かせられません」


 男の声は震えていた。


「俺の親父は、五年前、第四街区の昇降機で死にました。歯車が滑って、籠ごと。……止まってくれれば、もう誰も死なない。俺たちは、それだけのためにここにいるんです」


 ベルは言い返せなかった。男の抱えた帳面に、避難させた住人の名前が、細かい字でびっしりと並んでいた。


 男の肩ごしに、足場の上の背中が見えた。


「ルスト!」


 ルストの肩がびくりと動いた。振り返らなかった。


 ハンマーを構えた腕の包帯に、赤い色が滲みだしていた。鎖の火傷がまた開いたのだ。それでも、柄を握る手はぶれていなかった。


 そのとき、空洞の奥で、青銅の扉が開いた。


 呼ばれたのでも、こじ開けられたのでもなかった。内側から、静かに。黒い光が床を這い、その中から、黒い少女が歩み出てきた。


 左手にステッキ。欠けた紋章の歯。


 灰色の男たちが悲鳴を上げて散った。ヘルマンだけが動かなかった。


 ヘルマンは硝子の小瓶を握っていた。中の黒い欠片が、少女が近づくにつれて、瓶の底で狂ったように跳ねている。欠けた紋章の、あの歯の一枚。ベルの一撃で落ちた、あの欠片。


「出てきたか」


 ヘルマンの声が、初めて上ずった。


「打て、ルスト。あれが外にいるうちに」


 黒い少女はヘルマンを見なかった。ベルも見なかった。


 楔を見ていた。


 床を蹴る。速い。ベルの横を黒い風になってすり抜け、まっすぐ、楔の刃先へ。


 ベルは気づいた。


 あの子は誰も襲っていない。楔を、止めに行っている。


 ヘルマンも、同じことに気づいたようだった。懐中時計を握った手が、宙で止まった。


「……なぜ、あれが」


 その声は誰にも答えを求めていなかった。


「ギア!」


「わかってる!」


 金色の粉が降る。


 降りきらなかった。空洞の底から吹き上がる熱い風が、粉をさらって、ランタンの向こうへ散らしていく。ベルの肩に届いたのは、ほんの数粒だった。


 フェーダーがオルガンを抱えたまま、ベルの風上に回りこんだ。背中で熱風を受ける。黒髪があおられて炎のように逆立った。


 その陰に、粉が、静かに落ちてきた。


 眼鏡を投げる。


「ロードアウト——アイアン・ブート」


 装甲が肩に乗る。翼が開く。ベルは床を蹴って、黒い少女の後を追った。


 黒い少女が楔の刃先に紋章を噛ませていた。四十五度。刃を、歯車の隙間から押し戻そうとしている。けれど、欠けた紋章では噛みが浅い。歯が滑り、黒い火花が散る。


 ベルはその隣に降りる。


 黒い少女が、一瞬だけ、ベルを見た。


 ベルも紋章を刃先に噛ませる。四十五度。


 二つの紋章が楔の刃を両側から挟んだ。


 押す。


 刃がほんのわずか、隙間から戻る。拍がひとつ、正しく鳴る。


 頭上で、懐中時計の蓋が開く、小さな音がした。


「零時だ」


 ヘルマンの声。


「打て!」


 足場の上で、ルストがハンマーを振り上げた。


 ベルは、見上げた。


 ハンマーの鉄の頭が、ランタンの光を受けて、弧の頂点で止まっていた。ルストの顔が見えた。歯を食いしばり、目を大きく開いて、ベルと黒い少女と、二人が挟んだ刃先を見下ろしていた。


 ハンマーが、落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。