第41話 楔
下りの三百十二段は、上りより長かった。
鐘楼の揺れで、手すりの鋲がいくつも抜けていた。ベルは左手で壁を探りながら、フェーダーの手を引いて駆け下りた。塔の基部の搬入口では、門番の男たちが姿を消していた。錆びた扉が半開きのまま、下からの熱い風に揺れていた。
地下の空洞は、熱かった。
溶接の火があちこちで青白く燃えている。楔の巨大な刃先は、大時計の最下段の歯車の隙間に、半分まで食いこんでいた。刃が歯を押し広げるたび、空洞じゅうの歯車が低く軋み、拍が、つまずきながら刻まれる。
こつん。……こつん。こ、つん。
楔の尻に組まれた足場の上に、ルストが立っていた。
灰色の作業着の袖を肘までまくり、両足を開いて、ハンマーを肩の上に構えている。赤毛が汗で額に貼りついていた。その下で、ヘルマンが懐中時計を開いていた。
「あと一打」
ヘルマンの声が、空洞に響いた。
「零時と同時に打て。上の鐘は、もう当てにならない」
ベルは柱の陰から飛び出す。フェーダーがオルガンを抱えて後に続く。
足場の手前で、灰色の作業着の男がひとり、ベルの前に立ちふさがった。帳面を胸に抱えている。封鎖線の日、名簿をめくって青ざめていた男だった。
「行かせられません」
男の声は震えていた。
「俺の親父は、五年前、第四街区の昇降機で死にました。歯車が滑って、籠ごと。……止まってくれれば、もう誰も死なない。俺たちは、それだけのためにここにいるんです」
ベルは言い返せなかった。男の抱えた帳面に、避難させた住人の名前が、細かい字でびっしりと並んでいた。
男の肩ごしに、足場の上の背中が見えた。
「ルスト!」
ルストの肩がびくりと動いた。振り返らなかった。
ハンマーを構えた腕の包帯に、赤い色が滲みだしていた。鎖の火傷がまた開いたのだ。それでも、柄を握る手はぶれていなかった。
そのとき、空洞の奥で、青銅の扉が開いた。
呼ばれたのでも、こじ開けられたのでもなかった。内側から、静かに。黒い光が床を這い、その中から、黒い少女が歩み出てきた。
左手にステッキ。欠けた紋章の歯。
灰色の男たちが悲鳴を上げて散った。ヘルマンだけが動かなかった。
ヘルマンは硝子の小瓶を握っていた。中の黒い欠片が、少女が近づくにつれて、瓶の底で狂ったように跳ねている。欠けた紋章の、あの歯の一枚。ベルの一撃で落ちた、あの欠片。
「出てきたか」
ヘルマンの声が、初めて上ずった。
「打て、ルスト。あれが外にいるうちに」
黒い少女はヘルマンを見なかった。ベルも見なかった。
楔を見ていた。
床を蹴る。速い。ベルの横を黒い風になってすり抜け、まっすぐ、楔の刃先へ。
ベルは気づいた。
あの子は誰も襲っていない。楔を、止めに行っている。
ヘルマンも、同じことに気づいたようだった。懐中時計を握った手が、宙で止まった。
「……なぜ、あれが」
その声は誰にも答えを求めていなかった。
「ギア!」
「わかってる!」
金色の粉が降る。
降りきらなかった。空洞の底から吹き上がる熱い風が、粉をさらって、ランタンの向こうへ散らしていく。ベルの肩に届いたのは、ほんの数粒だった。
フェーダーがオルガンを抱えたまま、ベルの風上に回りこんだ。背中で熱風を受ける。黒髪があおられて炎のように逆立った。
その陰に、粉が、静かに落ちてきた。
眼鏡を投げる。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
装甲が肩に乗る。翼が開く。ベルは床を蹴って、黒い少女の後を追った。
黒い少女が楔の刃先に紋章を噛ませていた。四十五度。刃を、歯車の隙間から押し戻そうとしている。けれど、欠けた紋章では噛みが浅い。歯が滑り、黒い火花が散る。
ベルはその隣に降りる。
黒い少女が、一瞬だけ、ベルを見た。
ベルも紋章を刃先に噛ませる。四十五度。
二つの紋章が楔の刃を両側から挟んだ。
押す。
刃がほんのわずか、隙間から戻る。拍がひとつ、正しく鳴る。
頭上で、懐中時計の蓋が開く、小さな音がした。
「零時だ」
ヘルマンの声。
「打て!」
足場の上で、ルストがハンマーを振り上げた。
ベルは、見上げた。
ハンマーの鉄の頭が、ランタンの光を受けて、弧の頂点で止まっていた。ルストの顔が見えた。歯を食いしばり、目を大きく開いて、ベルと黒い少女と、二人が挟んだ刃先を見下ろしていた。
ハンマーが、落ちた。




