第40話 不協和音
耳の奥で、何かが弾けた。
音が音でなくなった。鐘楼の床から、壁から、骨から、ひとつの巨大な震えが突き上げてくる。ベルは膝をつく。眼鏡が鼻からずり落ち、床で跳ねた。
鐘の縁の、あのひびが、音を立てて走った。
青銅が裂ける音は、悲鳴に似ていた。
鎖が跳ねる。穴の底の黒い光が、ぐん、と近づく。
フェーダーの指が、止まっていた。オルガンの管の口から、湯気だけが細く漏れている。鍵に置いた指先が、震えていた。
震えのなかで、フェーダーの唇が動いた。
「……揺れてるから、届く」
フェーダーはオルガンを床に置いた。
そして、両手を胸の前で組み、息を吸った。
歌った。
声は細かった。鐘の轟きの中で、すぐにかき消されそうだった。音程は少し外れていた。鐘の音に対して、半音ずれた高さで、揺れて、ふらついて、それでも途切れなかった。
節が、耳に届いた。
ベルは、息を呑んだ。 歯車の歯を、一枚ずつ数えていく歌だった。
フェーダーは床に耳をつけて覚えたのだ。三晩、父親と並んで。一音も揺れない地下の歌を、揺れる自分の声で。
鐘の轟きがフェーダーの歌にぶつかった。
打ち消しあう。山と谷が噛みあって、震えの一部が、ふっと消える。消えたところから、歌だけが、鎖をつたって下へ降りていった。
ベルの髪の中で、ギアが震えていた。小さな体が翅の先まで、細かく。
「……その歌」
ギアの声がほとんど聞こえないほどかすれた。
「あの子が、作業しながら、歌ってた歌」
穴の底の黒い光が、止まった。 上ってくるのを、やめていた。
歌の節に合わせるように、光が揺れる。一度、二度。それから、また下へ沈みはじめた。 燕尾の男は音叉を握ったまま立ちつくしていた。
鐘の轟きが、少しずつ、少しずつ引いていく。最後の余韻が石の壁に吸いこまれたとき、鐘楼に残ったのは、フェーダーの細い声だけだった。
歌は祖母が途切れさせるのと同じところで、途切れた。
フェーダーはそこで口を閉じた。その先を誰も知らない。
静かになった。
鐘の縁のひびは、口の端から肩のあたりまで伸びていた。もう、元の音では鳴らないだろう。
「……鐘が」
燕尾の男が、つぶやいた。
「千年の鐘が」
男はフェーダーのほうへ向きなおった。その顔に怒りはなかった。怒りよりも、もっと静かで、もっと取り返しのつかない何かが浮かんでいた。
「お前は、もう、クラングの娘ではない」
フェーダーは床に座ったまま、父親を見上げた。
唇を、きゅっと噛んだ。
それから、襟につけていた小さな銀の留め具を外した。音叉の形をした、クラングの家の紋。それを、父親の足もとの床に、そっと置いた。
「……うん」
立ち上がって、オルガンを抱えた。
父親の横を通るとき、フェーダーは一度だけ足を止めた。
「父さんの音、きれいだったよ。ずっと。私、それが好きで、音を覚えたの」
燕尾の背中は動かなかった。
フェーダーはベルの手を取った。左手を。
「行こう。下で、まだハンマーが鳴ってる」
扉を出るとき、ベルは振り返った。
燕尾の男が床に膝をついていた。音叉を置いて、娘の残した銀の留め具を、長い指でそっと拾い上げていた。灯りに背を向けていて、顔は見えなかった。
穴の底から、かん、と音が上ってきた。
楔を打つ音だった。




