第39話 鳴らしてはいけない鐘
三百十二段を、ベルは一度も止まらずに駆け上がった。
左手で手すりをつかみ、右手はステッキを握ったまま。息が切れて、喉の奥で鉄の味がする。上へ行くほど、鐘の唸りが大きくなる。石壁全体が低く、長く、震えていた。
途中の小窓から見下ろすと、街の灯りが、ひとつ、またひとつ消えていくところだった。施療院の窓。電車の車庫。運河沿いの工場。ヘルマンの計算どおりに、街が順番に眠らされていく。灯りの消えた街区は、雨の中で、黒い水たまりのように沈んでいた。
鐘楼の扉は開いていた。
鐘の縁のひびが、灯りの中で黒い筋になって見えた。この前見たときより、指一本ぶん長い。
中に、二つの音が満ちていた。
ひとつは鐘の真下に立つ燕尾の男が鳴らしている音だった。胸から外した音叉を、鐘の縁に当てては離す。そのたびに、澄みきった一音が鐘の青銅に吸いこまれ、鐘ごと、塔ごと、長く共鳴した。
男の足もとに、硝子の小瓶が置かれていた。中の黒い欠片が、音叉が鳴るたびに、小瓶の底で跳ねる。 鐘の下の穴から垂れた鎖が、震えていた。さっきより、ずっと強く。
もうひとつの音は、鐘楼の反対の隅から来ていた。
フェーダーが床に膝をついてオルガンを弾いていた。
父親の音と、ほんの半音ずれた音。揺れて、息を継いで、それでも途切れない音。二つの音がぶつかる場所で、空気が波打っているのが見えた。波の山と谷が打ち消しあって、鐘の唸りが、そこだけ弱まる。
「フェーダー」
燕尾の男が音叉を離さずに言った。
「やめなさい」
「やめない」
フェーダーは目を閉じたまま弾きつづけた。
「父さんの音で鳴らしたら、下にいる人が引きずり出される。鐘は割れないかもしれない。でも、大時計が止まる」
「下にいるのは、鐘を噛む化け物だ」
「化け物は、百年も同じ歌を、一音も外さずに歌わない」
男の手が一瞬止まった。
その隙に、フェーダーの音が前へ出た。波が押し返され、鎖の震えがわずかに鎮まる。
男は音叉を握りなおす。
男の額に汗が光っていた。音叉を握る指の関節が、白くなっている。三晩眠らずに鐘の下に耳をつけていた人の顔だった。
「クラングの鐘は、千年、一度も揺れずに鳴ってきた。お前の揺れた音で、それを汚すのか」
「揺れてるから、届くんだよ」
フェーダーが、目を開けた。
「正確なだけの音は、表面で跳ね返る。父さんがいちばんよく知ってるはずでしょう。あの朝の鐘が割れて聞こえたとき、父さんは、自分の音が届いてないって、わかったはずでしょう」
男の顔が灯りの中で歪んだ。
ベルの足もとで、床が震える。鎖の下の、はるか深いところから、何かが上ってくる。拍とは違う。重いものが鎖をたぐって、少しずつ。 フェーダーの音だけでは、止まらない。
「ベル、下!」
フェーダーが叫んだ。
「私の音じゃ、もう押し返せない。上ってきてる。あの子が、鎖を上ってきてる」
ベルは鐘の下の穴を覗きこんだ。
暗闇の底で、黒い光が揺れていた。まだ遠い。けれど、確かに近づいてくる。
その光のさらに下、大時計の空洞のあたりで、かん、と音がした。
ハンマーが鋼を打つ音だった。
燕尾の男が音叉を高く振り上げた。
「これで、最後だ」
男は音叉を鐘の縁に叩きつけた。
鐘が、鳴った。
塔じゅうの石が、ひとつの音になった。




