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第38話 直せないもの

 次の夜、時計塔の地下搬入口には灯りが増えていた。


 錆びた両開きの扉の前に、灰色の作業着の男が二人、立っている。腕に楔の腕章。ランタンの光の輪の中で、雨が細い線になって落ちていた。


 ベルは石段の上の暗がりで、足を止めた。


 フェーダーは鐘楼へ向かった。零時までに、父親の前に立つと言って。ギアはベルの髪の中で、翅を固く閉じている。


 扉が開いて、誰かが出てきた。


 灰色の作業着だった。けれど、袖をまくった腕の包帯と、ランタンに照らされた赤毛を、ベルが見間違えるはずがなかった。


 ルストは肩にハンマーを担いでいた。


 門番の男に何か言って、石段を上ってくる。ベルに気づいて、足が止まった。


「……来るなって、書いただろ」


「書いてあった」


「読めなかったのか」


「読んだから来たの」


 ルストは目を逸らした。


 雨が二人のあいだに降っていた。石段の縁から、細い流れが下へこぼれていく。


「楔を、打つの」


「打つ」


「大時計が止まったら」


「止まり方を、ヘルマンは三年かけて計算してる。施療院は、今夜のうちに移した。電車は最終で止めた。街を、ひとつずつ眠らせてから止める」


「……ヘルマンさんの言うこと、全部が間違ってるとは思わない」


 ベルは言った。自分でも意外な言葉だった。


「七十度は、限界だよ。赤い針の地図も、見た。直してるあいだに人が死ぬのも、本当だと思う」


「俺もだ」


 ルストは短く言った。


「だから、打つ」


「でも、その下に、人がいるんだよ」


 ベルの声が雨に濡れて震えた。


「百年、手を離さないで支えてる人が。あれを引きずり出して、楔を打ったら」


「知ってる」


 ルストの声は、低かった。


「親父の話を、お前も聞いてただろ。聞かずに打って、人を殺した。だから今度は、知ってて打つ。何を止めて、何が壊れるか、全部知ったうえで、俺が打つ。親父の足の代わりに」


「そんなの、ルストが背負うことじゃない」


「じゃあ、誰が背負う」


 ルストが初めてベルの目を見た。


「お前か。その手で」


 ベルは、息を止めた。


「気づいてないと思ったか。火の粉が当たっても熱がらない。握りなおすたびに軸の上で指が滑る。鍛え直した晩、お前はずっと左手で押さえてた。今だって、その布に血が滲んでるのに、気づいてないだろ」


 ルストの手がハンマーの柄をきつく握った。


「直せないものも、あるんだよ」


 雨の音が急に大きくなった。


「お前の指みたいに」


「……直せるよ」


 自分でも驚くほど、硬い声が出た。


「直せないなんて、まだ誰も試してない」


「試さなくてもわかる。一度焼けた鋼は、元には戻らねえ」


 ベルはそれ以上言い返せなかった。


 右手を、制服のポケットの中で握った。握れているのかどうか、わからなかった。 ルストはベルの脇を通りすぎた。肩が触れそうなほど近くを。ハンマーの鉄の頭から、雨の雫が一つ、ベルの手の甲に落ちた。右手だった。何も感じなかった。


 石段の下で、ルストが一度だけ立ち止まった。


「ステッキの芯は、いい鋼だ。お前の手には、それだけ残しておく」


 灰色の背中がランタンの光の中を通って、扉の奥の闇へ消えた。


 扉が閉まった。


 門番の男たちが、ちらりとベルを見て、また前を向いた。


 ベルは石段に立ったまま、動けなかった。


 ポケットの中で、左手が、祖母にもらった小さな歯車に触れていた。四十五枚の歯。一枚ずつ、指の腹でなぞる。左の指はまだちゃんと、歯の一枚一枚を数えられた。


 直せないものも、ある。


 その言葉が雨の音の中で、何度も繰り返された。


 頭上で、時計塔の鐘が鳴った。十一時。


 その一打目は濁っていた。二打目も。そして三打目で、鐘の音に、別の音が重なった。


 低い、よく通る、音叉の音だった。


 鐘楼で、何かが始まっていた。

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