第37話 呼び鈴
ストーブの前で、フェーダーは毛布にくるまったまま、震える指でオルガンの管を拭いていた。
祖母が温めた牛乳のカップを、両手で抱えている。湯気がフェーダーの睫毛を白く濡らした。
「ヘルマンさんが、鐘楼に来たの。今日の夕方」
フェーダーは牛乳には口をつけなかった。
「黒い欠片を持ってた。硝子の小瓶に入れて。父さんが鐘の下の鎖にそれを近づけたら、鎖が、鳴ったの。誰も叩いてないのに」
「……共鳴」
「そう。あの欠片は、扉の向こうの子の一部だから。同じ音で震える」
ベルの手の中で、ステッキの拍がかすかに速くなった気がした。
「ヘルマンさんは言ったの。大時計を内側から支えているあの子を、外に呼び出してほしいって。あの子が中にいるかぎり、楔は押し返される。だから、あの子の音で鐘を鳴らして、呼び鈴みたいに、上へ引き上げる」
「引き上げたら、どうなるの」
フェーダーは、首を振った。
「わからない。でも、百年支えてきたものを抜いたら、大時計は、支えなしで楔を受けることになる」
祖母が揺り椅子の上で目を閉じた。
「お父さんは、どうして」
「鐘が、割れかけてるから」
フェーダーの声が、かすれた。
「あの朝から、ひびが毎晩少しずつ伸びてる。父さんは、下にいるのは鐘を噛む化け物だと思ってる。クラングの家は、千年、あの鐘を守ってきた。父さんの代で割らせるわけにいかないって」
フェーダーはオルガンの鍵に指を置いた。音は出さなかった。
「私、父さんに言ったの。あの歌は、化け物の歌じゃないって。一音も揺れずに、百年歌いつづけてる人がいるって」
「お父さんは」
「黙って、音叉を鳴らした。私には、それ以上聞かせないって意味」
フェーダーの肩が、毛布の中で小さく上下した。
それから、牛乳のカップをようやく口に運んだ。一口だけ飲んで、置いた。
「窓から出てきたの。鐘楼の、いちばん下の窓。父さんは、音叉を磨いてた。気づいてたと思う。何も言わなかった」
「明日の夜、鐘を鳴らすって。零時に。楔の最後の一打と、同じ時刻に」
ベルはルストのことを思った。
明日、答える。廊下の暗がりへ消えていった背中。
あと一打で嵌まる楔。その一打を打てる鍛冶屋は、この街に二人しかいない。
「……ルストは」
「え?」
「ルストのところに、行かなきゃ」
ベルは立ち上がる。
祖母が目を開けた。唇を結んだまま、壁の外套掛けから、自分の古い肩掛けを取って、ベルの肩にかけた。毛織りの肩掛けから、樟脳と、日なたの匂いがした。
◇
雨は小降りになっていた。
学校の裏手、石炭殻の道を走る。ざくざくと鳴る足音が、夜の中でやけに大きかった。フェーダーがオルガンを抱えてついてくる。
小屋の手前の排水溝で、何かが鳴った。
鉄格子の隙間から、手のひらほどの黒い歯車が這い出してくる。一つ。二つ。雨に濡れた歯が、ガス灯の光を鈍く返した。
二つ目が、フェーダーの足首へ跳んだ。
ベルは考える前に手を出していた。右手で、黒い歯車の縁を掴む。歯が手のひらに食いこんだ。
ステッキの紋章を左手で押し当てる。変身していない腕には重すぎた。それでも寝かせる。四十五度。
ぱきり、と乾いた音がして、黒い歯車が割れた。もう一つは、格子の奥へ逃げこんだ。
「ベル、手」
フェーダーの声が震えていた。
右の手のひらから、血が雨に混じって落ちていた。歯の形に、三つ、深く裂けている。 痛くなかった。
見なければ、切れたことにも気づかなかった。
フェーダーが首の布をほどいて、ベルの手に巻いた。巻かれる感触も、よくわからなかった。 排水溝の奥で、逃げた一つが、まだ小さく歯を鳴らしていた。
鍛冶小屋に、灯りはなかった。
扉には錠がかかっていた。これまで一度も、かかっているのを見たことがない錠だった。
ベルは錠に手をかける。冷たい鉄が左の手のひらに重かった。揺すってもびくともしなかった。 肩の上で、ギアが小さく言った。
「……あの子、本気ね」
錠の掛け金に、紙切れが一枚、挟まっていた。油の染みた、見慣れた字だった。
〈しばらく、来るな〉
ベルは紙切れを握りしめる。
小屋の裏手の窓から、中が見えた。炉は冷えている。作業台の上には何もない。棚の隅に、布でくるんだ細長いものが一本だけ置いてあった。
古い軸だった。ルストがステッキから抜いて、捨てられないと言った、曲がった軸。
その隣の金床の上に、いつもあるはずのハンマーが、なかった。




