第36話 写真の裏
祖母は、起きていた。
真夜中を過ぎているのに、居間のストーブにはまだ火が残っていて、揺り椅子の上で、祖母は膝に缶を載せていた。蓋の縁の錆びた、古い缶だった。
「来ると思ってた」
祖母はベルの顔を見ずに言った。
「階段を下りてくる足音が、あの人と同じだったから」
祖母は缶を開ける。きし、と蓋が鳴る。
中から、端の欠けた写真を一枚取り出して、ベルに渡した。
色の褪せた工房の前で、眼鏡の少女が笑っていた。油で汚れた両手を上げて、手首の内側で、眼鏡を押し上げかけている。肩のあたりに、小さな光のにじみが写っていた。 ベルの肩の上で、ギアが、声にならない音を立てた。
「裏を見て」
ベルは写真を裏返す。
褪せたインクで、細い字が書いてあった。
〈リーゼ・クロックワーク 十六歳 マルタへ 歯車は、ちゃんと数えること〉
ベルはその字を三回読んだ。
「マルタは、私の母さん。リーゼは、母さんのお姉さん」
祖母はストーブの火を見ていた。
「母さんがまだ十にもならないころ、リーゼ姉さんはいなくなった。家じゅうで探して、見つからなくて、みんな、家出したんだって言った。母さんだけは、信じなかった。姉さんは下へ行ったんだって、死ぬまで言ってた」
「下へ」
「時計の下。母さんは、それしか言わなかった」
祖母の指が揺り椅子の肘掛けを撫でた。
「あの歌はね、リーゼ姉さんが作ったの。母さんに、歯車の歯の数え方を覚えさせるために。ひとつ目の歯車が何枚、ふたつ目が何枚って、節に乗せて。母さんは子守歌の代わりに、私にそれを歌った。私は、あなたのお父さんには、子守歌にしなかった」
「どうして」
「母さんが言ったの。あの手を持って生まれた子は、時計に取られるって」
祖母はようやく、ベルを見た。
「あなたのお父さんの手は、違った。器用だけど、違った。だから、黙っていられたの」
「私には、歌ってた」
「あなたは、揺りかごの中で、指で拍をとってたのよ」
祖母は自分の指先で、肘掛けをゆっくり叩いた。こつん、こつん。
「床の下の音に合わせて、ずっと。私が黙っていると、あなたの指だけが、いつまでも数えてた。……黙っていられなかった。私が歌えば、少なくとも、時計じゃなくて私の声を数えてくれるでしょう。だから歌って、途中でやめたの。最後まで、数えさせないように」
ベルは思い出していた。祖母の鼻歌はいつも同じところで途切れていた。
「この前、あなたが手首で眼鏡を上げたとき」
祖母の声が、震えた。
「怖かった。とうとう来たと思った」
祖母はベルの右手を取る。しわだらけの両手で、包むように。
「冷たいわね、この手」
ベルは答えられなかった。祖母の手の温かさは、左手のほうにだけ、伝わってきた。
祖母は缶の底から、小さなものをもうひとつ取り出した。
真鍮の歯車だった。親指の先ほどの大きさで、長い年月に曇って、縁だけが鈍く光っている。
「姉さんが、いなくなる前の晩に、母さんに渡したものよ。何に使う歯車なのか、母さんにもわからなかった」
祖母はそれをベルの左の手のひらに載せた。
ベルは歯を数える。感覚の残る左の指先で、一枚ずつ。右手ではもう数えられない。 四十五枚だった。
「歌には、続きがあるの」
祖母はベルの手を握ったまま言った。
「母さんも、最後の一節だけは知らなかった。姉さんが、書きかけのまま行ってしまったから。最後の歯車の数だけ、誰も知らないの」
そのとき、玄関の扉が鳴った。
叩く音だった。強く、続けて、三度。
ベルが扉を開けると、雨の匂いが吹きこんできた。
フェーダーが立っていた。髪から雫を垂らし、オルガンを胸に抱えて、息を切らしていた。
「父さんが」
フェーダーの唇は、寒さで紫色になっていた。
「父さんが、管理局の人と組んだ」




