第35話 守れなかった子
屋根の上は、風が冷たかった。
雨上がりの瓦は濡れていて、目地に生えた苔が、土と鉄錆の混じった匂いを立てていた。腰を下ろすと、制服の布ごしに冷たさが染みてくる。
ベルの部屋の窓から、雨樋をつたって上ると、瓦の平らなところに出る。小さいころ、父に叱られるたびにここへ逃げた。煙突の列の向こうに、時計塔の文字盤が灯っているのが見える。
ルストはあの場で返事をしなかった。
明日、答える。それだけ言って、廊下の暗がりへ歩いていった。ベルはその背中を呼び止められなかった。
膝を抱えていると、髪の中で、ギアが身じろぎした。
四枚の翅が夜の中で弱く光った。半分しかなかった四枚目が、いつのまにか、ほとんど元の形に戻っていた。
「話すって、言ったわね」
ギアはベルの膝の上に降りる。
「全部は、話せない。でも、話せるところまで話す」
ベルは頷いた。 ギアは時計塔のほうを向いたまま、しばらく黙っていた。
「百年前、この街に、魔法少女がいたの」
風が煙突の煙を横になびかせる。
「眼鏡をかけてて、手がいつも真鍮の粉で汚れてた。歯車の話をしはじめると止まらなくて、私が何を言っても聞いてなかった。……あなたにそっくりだった」
「……リーゼ」
「そう。リーゼ」
ギアはその名前を、壊れやすいものを持つように言った。
「前にも言ったけど、料理が下手でね。林檎を剥かせると、皮より実のほうが薄くなるの。そのくせ、歯車の歯なら髪の毛一本ぶんの狂いでも見つけた。作業しながら、いつも鼻歌を歌ってた」
ギアの声がほんの少しだけ、やわらかくなった。すぐに、元の平らな声に戻った。
「あの子は、七十度がもう持たないことに、最初に気づいた。誰も信じなかった。管理局も、学校の先生も。あの子は一人で大時計の下まで降りて、崩れかけた歯車に、手を当てた」
ベルはその地下の闇を見たことがない。それなのに、湿った石の冷たさと、焼けた油の匂いが、喉の奥に来た。
「手を離したら、戻る。あの子はそう言って、離さなかった。自分ごと、歯車の支えになったの。大時計は、それから百年、砕けずに回ってきた」
「リーゼは、怖くなかったの」
「怖がってた」
ギアは即座に言った。
「最後まで、怖い、怖いって言ってた。歯車に手を当てながら、泣いてた。それでも、手を離さなかった」
「……ギアは」
「逃げたわ」
ギアの声は、平らだった。
「あの子の体が光になっていくのを見て、怖くて、飛んで逃げた。あとは、お願い、って言われたのに。何をお願いされたのかも、わからないまま」
ギアの小さな手が、ベルの制服の布を握った。
「それから百年、あのステッキが回る手を探した。いくつの手に触れさせても、一度も回らなかった。あなたの手が、初めてだった」
「扉の向こうにいたのは」
「……わからない」
ギアは首を振った。
「あの子の形をしてた。あの子の癖をしてた。でも、あの子は、あんなに黒くなかった」
ベルは自分の右手を見る。感覚のない指。それから、左手。
「リーゼって、どこの人だったの」
ギアは答えなかった。
代わりに、ベルの顔を見上げる。翅の動きが止まっていた。
「それは、私が言うことじゃない」
「じゃあ、誰が」
「あなたのおばあさんに、聞いて」
ベルの息が、止まった。
倉庫の木箱。蓋の裏の、小さな刻み。封印の扉の、〈L・C〉。
Lは、リーゼ。
ベルは自分の名前を頭の中でなぞった。ベル・クロックワーク。
Cは。




