第34話 一グラムも
施療院の廊下は、石炭酸と、煮沸した布の匂いがした。
夜更けの灯りは絞られていて、長い廊下の先が暗がりに溶けている。ベルは木の長椅子に座って、閉じた扉を見ていた。扉の向こうに、ルストと、ルストの父親がいる。
ギアはあの夜からひと言も話していなかった。髪の中で、小さく丸まったままだった。
扉の向こうの、黒い少女。大時計を止めようとする、楔の人たち。そのどちらからも、この街の拍を守らなければならない。
そのために、まず、ルストを向こう側へ行かせるわけにはいかなかった。
扉の隙間から、声が漏れてきた。
「……足の骨が、二か所だとよ」
低い、くぐもった声だった。ルストの声によく似ていて、もっと擦れていた。
「治るまで、槌は握れねえ」
「そんなことを聞きに来たんじゃない」
ルストの声は、硬かった。
「あの楔は、何なんだ。大時計を止めるための鋼を、なんで親父が打ってる。俺にまで仕分けさせて」
しばらく、何も聞こえなかった。
廊下の柱時計が、こつん、こつん、と拍を刻む。どこかの病室で、誰かが咳きこんだ。看護の修道女が、盆に薬瓶を載せて通りすぎていく。硝子の瓶どうしが触れあって、かちかちと小さく鳴った。
「三年前の、第二街区の本管」
父親の声が言った。
「裂けた継ぎ手を打ったのは、俺だ」
ベルは長椅子の縁を握る。左手で。
「管理局の図面どおりに打った。七十度の噛み合い、指定の配合、指定の焼き入れ。一グラムも誤魔化さずにな。検査も通った。俺は、いい仕事をしたと思ってた」
声がそこで少し途切れた。
「エルンストってのは、その継ぎ手を受け取りに来た若い職員だった。礼儀正しい男でな。いい鋼ですね、って言いやがった。三か月後、その継ぎ手が滑って、あいつは本管と一緒に吹っ飛んだ」
「……」
「兄貴が来た。ヘルマンだ。俺は殴られると思った。あいつは殴らなかった。図面を一枚、机に置いただけだ。七十度が、もう限界だっていう計算の図面だった」
寝台の軋む音がした。
「誇りなんてもんはな、図面が正しいときにしか役に立たねえ。俺はずっと、何に使われるかを聞かずに打ってきた。聞かないのが職人だと思ってた。その結果が、名前の壁の、いちばん下の段だ」
ベルは黒い石の壁を思い出していた。いちばん下の段の、まだ角の立った名前。その下にだけ供えてあった、鉄を叩いて作った、錆びない花。
あの花を打ったのが誰なのか、ベルには、もうわかっていた。
「だから、楔を」
「あれは、俺が初めて、何に使うか知ってて打った鋼だ」
父親の声は、静かだった。
「間違ってるかもしれねえ。だが、知らずに打って人を殺すより、知って打って、自分で背負うほうがましだ」
長い沈黙があった。
「……俺も、一本、盗んだ」
ルストの声だった。
「親父の客の鋼。ベルのステッキの芯にした。知ってて打った。止めるほうじゃなくて、回すほうに使う鋼として」
今度の沈黙はもっと長かった。
それから、低い笑い声がした。笑っているのに、喉が詰まっているような声だった。
「そうか。……どっちに使うか、自分で決めたのか」
「決めた」
「なら、それはお前の鋼だ。俺に謝るな」
扉が開いた。
ルストが出てくる。赤毛が乱れていて、目の縁が赤かった。ベルの顔を見て、何か言いかけて、やめた。
廊下の暗がりから、靴音が近づいてきた。硬い革底の、規則正しい足音。
紺の外套が灯りの輪の中に入ってくる。
ヘルマンはベルを見なかった。ルストの前で立ち止まる。
「父上の怪我は、私の責任だ」
ルストは答えなかった。
「楔は、あと一打で嵌まる。いちばん深い一打だ。あの鋼を、あの角度で打ちこめる鍛冶屋は、この街に二人しかいない。一人は、今、寝台の上にいる」
ヘルマンは懐中時計の留め金を弾く。
「もう一人に、頼みに来た」




