第33話 こつ、こつ
黒い少女が、床を蹴った。
速い。
ベルが紋章を立てるより先に、黒い紋章がそこにあった。受ける。火花が散る。噛み合った歯と歯の角度を、ベルの指が読もうとした瞬間、相手の角度が変わった。 四十五度。
鏡に映したように、向こうからも、四十五度。
噛み合った紋章が、どちらにも倒れなかった。押しても、寝かせても、同じだけ押し返され、同じだけ寝かされる。ベルが半回転ひねろうとすると、相手も半回転、逆へひねった。
二つの紋章が火花だけを散らして、空洞の真ん中で止まった。
そのとき、手の中で芯が鳴った。
ルストが陽の傾くまで叩いた鋼が、押しあう力を曲がらずに受けとめ、まっすぐ骨まで逃がしていく。軸はたわまない。たわまないぶん、行き場をなくした力が、紋章の歯の先に集まっていく。
ぴし、と細い音がした。
黒い紋章の歯が一枚、根元から欠けていた。
少女の動きが初めて止まった。
欠けた歯が煤のような黒い欠片になって、床に落ちて転がる。少女はそれを見下ろし、それから、ベルのステッキを見た。握りではなく、芯のあたりを。長いあいだ。 少女の顔は影になって見えなかった。黒い眼鏡の縁だけが、ときどき、ベルの装甲の金色を映して光った。
眼鏡をかけている。変身しているのに。
少女がふっと力を抜く。
つんのめったベルの脇を、黒い紋章がすり抜ける。装甲の脇腹に、焼けるような痛みが走った。体が宙に浮き、背中から石柱に叩きつけられる。
息が全部出ていった。
黒い少女が歩いてくる。急がずに。
ベルは柱を支えに立ち上がる。ステッキを構える。右手の指先はもう何も感じていなかった。握っているのかどうかさえ、目で見なければわからない。
光を束ねる。
白と金の線が少女の胸に伸びる。
少女は左手のステッキを、ほんの少し傾ける。黒い紋章の歯の隙間で、ベルの光が、ねじれて、ほどけた。散った光が少女の黒い装甲の上を、金色の水のように流れ落ちていく。
同じ技だった。束ね方を裏返しにした。
少女がベルの目の前に立つ。
近くで見ても顔は見えなかった。黒い光がそこだけ濃く渦を巻いている。
少女は左手を上げる。
ベルのステッキの、紋章の歯の背に。
人差し指で、二度、叩いた。 こつ、こつ。
ベルの体が、固まった。
指先の感覚はないのに、その二度の音だけは、骨の奥まで届いた。工房の八番目の歯車。電車の床下の爪車。鍛冶小屋で噛ませた、最後の一枚。何度も、自分の指で鳴らしてきた音だった。
黒い渦の奥で、唇が動いた。
「……まだ、早い」
声はベルとよく似ていた。ベルより、ほんの少しだけ低かった。
少女の左手がベルの胸を押した。
軽い力だった。それなのに、ベルの体は後ろへ飛ばされ、床を転がり、扉の外まで押し出されていた。
青銅の扉が内側から閉まった。
重い音が空洞じゅうに響いた。黒い光が床から引いていき、立ち上がっていた黒い歯が、砂のように崩れて消える。大時計の拍がひとつ、つまずいて、また元の速さに戻った。
静かになった。
扉の向こうから、また、歌が聞こえはじめた。さっきまでと同じ節。同じ速さ。一音も外さずに。
ベルは床に倒れたまま、閉じた扉を見ていた。〈L・C〉の二文字が、ランタンの光の中で黒く沈んでいる。
変身が解けた。
足場のほうで、ルストが父親の肩を支えていた。灰色の男たちが荷車の陰から這い出してくる。
ヘルマンは扉の前にしゃがみこんでいた。床に落ちていた、黒い欠片をひとつ、手袋の指でつまみ上げる。ベルの紋章が噛み欠いた、あの少女の紋章の、歯の一枚だった。
ベルはそれが自分の一撃で落ちたものだと知っていた。
ヘルマンはそれをハンカチに包み、懐に入れた。
「鍵は、手に入った」
誰にともなく言って、紺の外套は通路の闇へ消えていった。
ベルは肩の重みに気づいた。
ギアがそこにいた。四枚の翅を全部閉じて、小さく、小さく、丸まっていた。
ギアの唇が動いた。 誰にも聞かせるつもりのない、息のような声だった。
「……リーゼ」
大時計の拍の中で、その名前は、すぐに聞こえなくなった。




