↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/47

第33話 こつ、こつ

 黒い少女が、床を蹴った。


 速い。


 ベルが紋章を立てるより先に、黒い紋章がそこにあった。受ける。火花が散る。噛み合った歯と歯の角度を、ベルの指が読もうとした瞬間、相手の角度が変わった。 四十五度。


 鏡に映したように、向こうからも、四十五度。


 噛み合った紋章が、どちらにも倒れなかった。押しても、寝かせても、同じだけ押し返され、同じだけ寝かされる。ベルが半回転ひねろうとすると、相手も半回転、逆へひねった。


 二つの紋章が火花だけを散らして、空洞の真ん中で止まった。


 そのとき、手の中で芯が鳴った。


 ルストが陽の傾くまで叩いた鋼が、押しあう力を曲がらずに受けとめ、まっすぐ骨まで逃がしていく。軸はたわまない。たわまないぶん、行き場をなくした力が、紋章の歯の先に集まっていく。


 ぴし、と細い音がした。


 黒い紋章の歯が一枚、根元から欠けていた。


 少女の動きが初めて止まった。


 欠けた歯が煤のような黒い欠片になって、床に落ちて転がる。少女はそれを見下ろし、それから、ベルのステッキを見た。握りではなく、芯のあたりを。長いあいだ。 少女の顔は影になって見えなかった。黒い眼鏡の縁だけが、ときどき、ベルの装甲の金色を映して光った。


 眼鏡をかけている。変身しているのに。


 少女がふっと力を抜く。


 つんのめったベルの脇を、黒い紋章がすり抜ける。装甲の脇腹に、焼けるような痛みが走った。体が宙に浮き、背中から石柱に叩きつけられる。


 息が全部出ていった。


 黒い少女が歩いてくる。急がずに。


 ベルは柱を支えに立ち上がる。ステッキを構える。右手の指先はもう何も感じていなかった。握っているのかどうかさえ、目で見なければわからない。


 光を束ねる。


 白と金の線が少女の胸に伸びる。


 少女は左手のステッキを、ほんの少し傾ける。黒い紋章の歯の隙間で、ベルの光が、ねじれて、ほどけた。散った光が少女の黒い装甲の上を、金色の水のように流れ落ちていく。


 同じ技だった。束ね方を裏返しにした。


 少女がベルの目の前に立つ。


 近くで見ても顔は見えなかった。黒い光がそこだけ濃く渦を巻いている。


 少女は左手を上げる。


 ベルのステッキの、紋章の歯の背に。


 人差し指で、二度、叩いた。 こつ、こつ。


 ベルの体が、固まった。


 指先の感覚はないのに、その二度の音だけは、骨の奥まで届いた。工房の八番目の歯車。電車の床下の爪車。鍛冶小屋で噛ませた、最後の一枚。何度も、自分の指で鳴らしてきた音だった。


 黒い渦の奥で、唇が動いた。


「……まだ、早い」


 声はベルとよく似ていた。ベルより、ほんの少しだけ低かった。


 少女の左手がベルの胸を押した。


 軽い力だった。それなのに、ベルの体は後ろへ飛ばされ、床を転がり、扉の外まで押し出されていた。


 青銅の扉が内側から閉まった。


 重い音が空洞じゅうに響いた。黒い光が床から引いていき、立ち上がっていた黒い歯が、砂のように崩れて消える。大時計の拍がひとつ、つまずいて、また元の速さに戻った。


 静かになった。


 扉の向こうから、また、歌が聞こえはじめた。さっきまでと同じ節。同じ速さ。一音も外さずに。


 ベルは床に倒れたまま、閉じた扉を見ていた。〈L・C〉の二文字が、ランタンの光の中で黒く沈んでいる。


 変身が解けた。


 足場のほうで、ルストが父親の肩を支えていた。灰色の男たちが荷車の陰から這い出してくる。


 ヘルマンは扉の前にしゃがみこんでいた。床に落ちていた、黒い欠片をひとつ、手袋の指でつまみ上げる。ベルの紋章が噛み欠いた、あの少女の紋章の、歯の一枚だった。


 ベルはそれが自分の一撃で落ちたものだと知っていた。


 ヘルマンはそれをハンカチに包み、懐に入れた。


「鍵は、手に入った」


 誰にともなく言って、紺の外套は通路の闇へ消えていった。


 ベルは肩の重みに気づいた。


 ギアがそこにいた。四枚の翅を全部閉じて、小さく、小さく、丸まっていた。


 ギアの唇が動いた。 誰にも聞かせるつもりのない、息のような声だった。


「……リーゼ」


 大時計の拍の中で、その名前は、すぐに聞こえなくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。