第32話 開けちゃだめ
扉の前に、紺の外套が立っていた。
ヘルマンは懐中時計を手にしていた。留め金を弾く。灰色の男たちが、扉の継ぎ目に鉄の梃子を差しこんでいた。
「楔だけでは足りない」
ヘルマンは誰に言うでもなく言った。
「三年かけて調べた。大時計の設計図を、この扉の手前まで。七十度の歯車は、とうの昔に限界を越えている。本来なら、百年前に砕けていたはずだ」
ヘルマンは扉の浮き彫りの紋章を見上げた。
「それが、まだ回っている。止めても、内側から押し返してくる。この百年、何かが、これを支えている。その何かを、先に外に出す」
男たちが梃子に体重をかける。青銅の縁がぎしりと軋む。
扉の向こうの歌が、途切れた。
ベルの肩の上で、ギアが翅を固く閉じて、ベルの髪にしがみついていた。小さな爪が地肌に食いこむほどに。
「……開けちゃ、だめ」
ギアの声はほとんど息だった。
「お願い。あれを、開けちゃだめ」
ルストがベルの袖をつかんだ。
「待て、今出たら」
その手をベルはほどいた。感覚のない右手で。自分の指がルストの指に触れたのかどうかも、わからなかった。
ベルは柱の陰から飛び出していた。
「やめて!」
灰色の男たちが振り返る。ヘルマンは振り返らなかった。
「君か」
「その扉、開けたらだめです!」
「知っている」
ヘルマンの声は、少しも揺れなかった。
「開ければ、何かが出てくる。この下に、百年分の何かがいる。弟を殺したものの根が、この扉の向こうにある」
ヘルマンは懐中時計を握りしめた。
「だから、私が開ける。誰かに押しつけて、見ないふりはしない」
梃子がもう一段深く食いこんだ。
青銅の扉が指一本ぶんだけ、内側へずれた。 隙間から、光が漏れる。
光は黒かった。黒いのに光っていた。煤を溶かした金のような、重い輝きが、床を這って広がってくる。
触れた梃子が根元から錆びた。
灰色の男たちが悲鳴を上げて跳びのく。黒い光は床の上で渦を巻き、渦の縁から、黒い歯が一本、また一本と立ち上がっていく。空洞じゅうの大時計の拍が、一拍、つまずいた。
足場の上で、ルストの父親が足を踏み外した。錆びて崩れた手すりごと、鋼材の束と一緒に、下へ落ちていく。鈍い音がした。
ルストが父親の名前を叫んで足場へ走った。
黒い歯の一本が、逃げ遅れた灰色の男の足もとを薙いだ。男は床に転がり、這うようにして柱の陰へ逃げこむ。黒い歯が触れた床石が、音もなく砂になって崩れた。 ベルは眼鏡を外した。
「ギア」
ギアは答えなかった。金色の粉はそれでも降ってきた。細く、震えながら。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
装甲が肩に乗る。翼が開く。視界が澄む。
澄んだ目で、ベルは見た。
扉の縁の青銅が、黒い光に触れて、ぼろぼろと崩れ落ちていく。空気が冷たく、それなのに、焦げた砂糖の匂いがした。ギアの匂いによく似ていた。もっと古くて、もっと苦かった。
扉の隙間の、向こう側。 黒い光の中に、誰かが立っていた。
ベルと同じくらいの背丈。膝までのブーツ。重ねた金属板のスカート。胸と肩の装甲。背中に扇形に開いた、六枚の歯車の翼。どれもベルと同じ形で、どれもが、煤に焼かれたように黒かった。
手に、ステッキを握っていた。先端に歯車の紋章。
黒い少女は扉の隙間から、ゆっくりと一歩、踏み出した。
青銅の扉が少女の肩に押されて、音もなく開いた。
少女がステッキを構える。 ベルと、まったく同じ構えだった。
ただ一つだけ違った。 黒い少女はステッキを左手で握っていた。




