第30話 鐘楼
時計塔の螺旋階段は、三百十二段あった。
ベルは右手を制服のポケットに入れたまま上った。手すりは左手だけでつかんだ。右手で触れても鉄の冷たさはわからない。わからないまま握ると、握れているのかどうかも、わからなくなる。
数えながら上るうちに、息が白くなった。塔の石壁は外よりずっと冷たく、手すりの鉄は、左手のひらに吸いつくように冷えていた。上へ行くほど、大時計の拍が遠くなり、代わりに、頭上から低い唸りが降ってくる。
鐘の唸りだった。 鳴っていないのに、鐘は唸っていた。
途中の小窓から、街が見えた。煙突の列が夕陽を受けて、長い影を東へ伸ばしている。第三街区の市場通りには、もう屋台の灯りが戻っていた。昨日の夕方、あそこで弁を開けたのが自分だということが、この高さからだと、別の誰かの話のように思えた。
ギアはずっとベルの髪の中にいた。塔を上るにつれて、口数が減っていった。
鐘楼の扉の前に、燕尾の男が立っていた。フェーダーの父親だった。前に見たときより、頬がこけている。目の下が煤を塗ったように黒い。
「娘は、ここにいる」
男は扉を開けなかった。
「君は、あの水門で、あれと戦っていた子だな」
「……はい」
「娘の手紙を、読んだか」
ベルは頷いた。男は長く息を吐いた。
「では、君も聞いたのか。地面の下の、あれを」
扉が内側から開いた。
フェーダーが立っていた。黒髪を下ろしたまま、首に細い布を巻いている。水門で裂けた管は、新しい真鍮に替わっていた。
「父さんが直したの」
フェーダーはベルの視線に気づいて言った。
「何も聞かないで。夜のうちに、黙って」
男は娘の言葉に何も返さなかった。
鐘楼の中は巨大な鐘に占められていた。青銅の肌に緑の錆が浮き、口の縁に、ひびが一本、細く走っている。鐘の真下の床には、四角い穴が開いていて、そこから太い鎖が、塔の芯を通って地下へ垂れ下がっていた。
鎖は誰も触れていないのに、かすかに揺れていた。
「この鎖は、大時計の心臓とつながっている」
フェーダーの父親が言った。
「鐘は、大時計の拍を千年、外へ伝えてきた。だから、下で起きたことは、ここで聞こえる」
男は床に膝をつき、鎖に耳を寄せた。
胸の音叉が鎖に触れてかすかに鳴った。男の指は長く、関節だけが節くれだっていた。何十年も、鐘の縁を指で弾いて音を確かめてきた手だった。フェーダーの指と、同じ形をしていた。
「三晩、聞いた。拍の下で、誰かが歌っている。子供の歌だ。そして、あの朝、鐘を内側から噛んだのは、その歌の主だ」
男は顔を上げた。
「私は、調律師だ。鐘の狂いなら直せる。だが、あれは狂いとは違う。直すものでもない」
「……私も聞いた」
フェーダーがベルの隣に立った。
「父さんと一緒に、この床に耳をつけて。子供の歌なのに、ひとつも揺れてなかった。一音も外さない。千年、同じ速さで歌ってきたみたいに」
フェーダーは首に巻いた布を指でつまんだ。
「そんな歌い方、人間にはできないよ」
二人で、鐘の下の穴を覗きこむ。
はるか下の暗がりで、何かが光った。
ベルは膝をつき、身を乗り出した。変身していない目では、遠すぎる。眼鏡の縁に指を添えて、目を凝らす。 塔の地下の、どこか。石の通路に、揺れるランタンの光が点々と並んでいた。光のあいだを、豆粒ほどの人影が荷車を押していく。荷台には細長い束。
一つだけ、ほかより大きな影があった。束を二つまとめて、片方の肩に軽々と担いでいる。顔は見えない。ランタンの前をよぎるたびに揺れる、その担ぎ方だけが見えた。 ベルはその担ぎ方を知っていた。
鋼材を担いだ大きな背中と、その陰に隠れていた、赤い髪の小さな子。
ルストの父親に、見えた。
荷車は塔の基部の闇の中へ、ひとつずつ吸いこまれていく。鎖がさっきより強く震えはじめた。




