第1話 四十五度
八番目の歯車を、七十度で押しこむ。
滑った。今朝の爪車と同じ、空しい手ごたえだった。
放課後の工房には、ベルのほかに誰もいなかった。地下の実習室は切削油の匂いがこもり、石壁に背中を預けるとひんやりする。額に貼った絆創膏が、汗でむずがゆい。
足の裏に来る拍が、昼からときどき、ひとつ詰まる。そのたびに、作業台の上の歯車がかすかに跳ねた。
大時計の点検だった、と管理局は昼までに発表した。事前の告知はなかった。点検で、電車の掴み手が外れるだろうか。
ベルは作業台に、今朝の爪車と同じ比率の模型を組んでいた。千年分の七十度が、止まった瞬間に何も掴めなくなる。それを、誰にでもわかる形で見せたかった。
先生に。できれば、管理局の誰かに。
眼鏡がずり落ちてきた。指で直しかけて、やめる。爪の間まで真鍮の粉が詰まっていた。
手首の内側で押し上げてから、八番目をつまみ直す。
四十五度に寝かせる。人差し指で歯の背を二度叩いた。こつ、こつ。
かちり、と歯車が回った。
ノートに書き足す。〈大時計停止7秒 掴み手の爪70°で空転 45°で即時噛合〉。
そのとき、工房の奥で何かが倒れた。
重い音だった。金属の箱が石の床に落ちたような。音のした方には倉庫の扉があって、いつもは錠がかかっている。
それが今、指一本ぶんだけ開いていた。
隙間の向こうで、金色の光がくるくる回っている。
蛍にしては速すぎる。それに、蛍は地下にはいない。
扉を押すと、黴と埃の匂いが鼻をくすぐった。古い部品を積んだ棚のあいだを抜けていくと、隅に木箱がひとつ落ちていて、その上に手のひらほどの人影が浮かんでいた。
翅が四枚。体のまわりを金色の粉が舞っている。
大きな目がベルの眼鏡を見つけて、見開かれた。
「やっと見つけた! あなたがベルね? ベル・クロック――」
そこで声が途切れた。ほんの一拍、翅の動きまで止まった気がした。
「……クロックワーク。探してたのよ」
「え、あの、誰」
「ギア。説明は後。窓を見て」
倉庫の明かり取りの小窓から、空の一部が見えた。
赤かった。
夕焼けにしては濁っている。煙突の蒸気まで赤く染まって、街の上に垂れこめていた。窓の隙間から入ってくる風が、焦げた鉄の匂いを運んでくる。
その下で、時計塔と同じ高さの黒い影が向きを変えていた。歯車の形をしている。歯が何十本も、でたらめな角度で突き出している。
影の歯が広場の地面に噛みついた。
遠くで何かが砕け、小窓のガラスが震えた。街灯がひとつ、またひとつ消えていく。
足の裏で、こつん、こつん、が乱れた。ひとつ飛び、ふたつ詰まり、また飛ぶ。倉庫の床を伝わってくる拍が、誰かに首を絞められているように途切れがちになる。
今朝の七秒の前にも、こんなふうだっただろうか。思い出せない。あのときはノートの数字しか見ていなかった。
「ジャミング。あれがこの街の歯車を食べ尽くしたら、クロックハイムは止まる」
ギアが木箱の蓋を蹴り開けた。中に、銀色のステッキが寝かされていた。先端に歯車の紋章。
握りの部分だけが、何度も握られたように黒ずんでいる。蓋の裏に小さな文字が刻まれていたが、ベルの目はそこまで届かなかった。
「握って」
「無理、私ただの二年生で」
「握って。あれ、こっちを向いたわよ」
窓の外で、黒い影の回転が止まっていた。
ベルは箱の中に手を伸ばした。指先が軸に触れた瞬間、ステッキの内側で何かが回りはじめた。小さな歯車がひとつ、またひとつ、噛み合っていく。
迷いのない回り方だった。
まるで、この手を前から知っていたみたいに。




