プロローグ 止まった七秒
手を離したら、戻る。
それがわかっていたから、少女は離さなかった。
地下の闇で巨大な歯車が唸っている。焼けた油の匂いが喉に張りつき、足もとの石は湿って冷たい。少女は右手の人差し指で、目の前の歯の背を二度叩いた。
こつ、こつ。それから手のひらをぴたりと押し当てた。
足もとから白い光が這い上がってくる。膝を越え、腰に届く。痛みはもう遠い。
眼鏡が鼻からずり落ちかけた。少女は空いている左手の、手首の内側でそれを押し上げた。指はどちらも真鍮の粉で汚れていた。
肩のあたりで、小さな金色の光が震えている。焦げた砂糖の匂いがした。
「——あとは、お願い」
光が胸に届いたところで、少女の輪郭がほどけた。
歯車はそれからしばらく、正しい角度で回っていた。
◇
朝の路面電車は混んでいた。
十六にもなってつり革に届かない背丈のベル・クロックワークは、扉の脇の手すりに掴まって、膝で押さえたノートに数字を書きつけていた。〈70°→引っかかる 50°→硬い 45°?〉。
車内は外套に染みた石炭の匂いと、誰かの弁当の酢漬けの匂いでむっとしている。
床から、こつん、こつん、と拍が伝わってくる。心臓よりすこし遅い速さで。この街で生まれた人間なら、誰でも足の裏で知っている拍だ。
電車が時計坂にさしかかった。旧市街から学校のある高台まで、まっすぐ登っていく急な坂だ。床下で駆動索の掴み手ががちりと噛み、車体がぐっと傾く。
立っている客の体が、いっせいに後ろへ寄った。
窓の内側に、色あせた貼り紙があった。〈歯車鳴りは異常ではありません ――蒸気管理局〉。
この春から、街のあちこちで歯車が鳴いている。軋むような、歯ぎしりのような音で。蒸気管が破れる事故も、去年の倍になったと父が言っていた。
坂の半ばで、音が消えた。
最初は何が消えたのかわからなかった。耳が詰まったのかと思った。それから気づいた。
足の裏から、こつん、こつん、が伝わってこない。
電車が止まった。
車内のざわめきも止まった。窓の外で、ガス灯の炎がシャッターの半開きのまま揺れている。坂の上の信号機の腕木が、中途半端な角度で固まっていた。
床の下で、何かが滑る音がした。
車体がゆっくりと後ろへ動きだした。
「掴み手が外れた!」
誰かが叫んだ。坂の下には次の電車が登ってきている。
悲鳴が上がる前に、ベルは床に膝をついていた。点検用の蓋に指をかける。重い鉄の縁が指の腹に食い込んだ。
こじ開けると、冷たい油の匂いと一緒に、駆動索を噛む爪車が見えた。爪が歯の背をかりかりと空しく滑っている。
七十度。爪の角度が急すぎて、止まった索に食いつけない。
三つ。
ベルは鞄から六角レンチを抜き、爪の根元の止めねじに差しこんだ。油で手が滑る。電車の揺れで、額が蓋の縁にぶつかった。
四つ。五つ。
ねじを半回転緩め、爪を手で寝かせる。噛ませる前に、人差し指で爪の背を二度叩いた。こつ、こつ。
六つ。
がちん、と重い音がして、爪が索に噛んだ。車体が大きく揺れ、止まった。立っていた客が何人か、床に尻もちをついた。
七つ。
足の裏に、こつん、が戻ってきた。
ガス灯のシャッターが開ききり、信号の腕木が落ち、駆動索がまた電車を引きはじめる。車内に、長い息がいくつも重なった。
この街では誰も時計を持ち歩かない。
時計塔の地下で回る大時計が、千年前から一度も休まずに拍を刻み、その拍が百万個の歯車を伝って街の隅々まで届いているからだ。
路面電車も、ガス灯も、パン屋の窯の送風機も、病院の揚水ポンプも、同じ拍で回っている。歯車という歯車は、千年前の設計者が定めた七十度で噛み合っている。
だから大時計が止まれば、蒸気歯車都市クロックハイムのすべてが止まる。
たった今、そうなった。
ベルは床に膝をついたまま、自分の手を見ていた。油と、額から垂れた血で、指先が赤黒く汚れている。
「大時計が止まるなんて」
隣の老人が誰に言うでもなくつぶやいた。
「千年、一度もなかったことだ」
電車が坂を登りきり、時計塔が窓に大きく映った。
ちょうど、八時の鐘が鳴るところだった。
鐘は七秒遅れて鳴った。そして一打目の音が、ベルの知っているどの鐘の音とも違っていた。
澄んでいなかった。
何か硬いものを、奥歯で噛み砕いたような音だった。




