はじめに(世界観とキャラクター紹介)
■ 蒸気歯車都市クロックハイムの世界
煙突が林のように立ち並び、街じゅうが蒸気で白く霞んでいる。ここは、歯車で動く街クロックハイム。
時計塔の地下では、千年前に造られた大時計が一度も休まずに回っている。その拍は百万個の歯車を伝って、街の隅々まで届く。路面電車も、ガス灯も、パン屋の窯も、病院のポンプも、すべてが同じ拍で回っている。
だからこの街では、誰も時計を持ち歩かない。足の裏に伝わる「こつん、こつん」という拍が、時計の代わりになっている。
街じゅうの歯車は、千年前の設計者が定めた「七十度」で噛み合っている。理論上、いちばん無駄のない角度だと教科書は教える。
けれどこの春から、街のあちこちで歯車が鳴きはじめた。軋むような、歯ぎしりのような音で。蒸気管の事故は去年の倍になった。蒸気管理局は「歯車鳴りは異常ではありません」と貼り紙を出すばかり。
ある朝、千年止まったことのない大時計が、七秒だけ止まった。
その日の夕方、空が赤く濁り、街の上に黒い歯車の怪物が現れる。歯をでたらめな角度で突き出し、街の歯車を食い荒らしていく「ジャミング」だ。
これは、壊すことより直すことが得意な少女が、錆びた一本のステッキを握って、百年前から続く歪みに挑む物語。
■ 登場人物
【主要人物】
◆ベル・クロックワーク
機巧科の二年生、十六歳。放課後の工房にひとりで残って、歯車を組むのが何より好き。つり革に届かない背丈で、眼鏡は手首の内側で押し上げる癖がある。歯車の歯なら髪の毛一本ぶんの狂いでも見つけるのに、値切りや道を聞くのは苦手。料理をすればキャラメルを焦がす。
千年守られてきた「七十度」に、ひとりで疑問を持っている。
倉庫で見つけた古いステッキを握った日から、街を食い荒らす黒い歯車と戦うことになる。壊して倒すのではなく、噛み合う角度を探して直すやり方で。
◆ギア
手のひらほどの大きさで、翅は四枚。金色の粉をまとい、焦げた砂糖の匂いがする。ベルを魔法少女にした張本人。口が悪く、世話焼き。
ベルの名前を呼ぶとき、「クロックワーク」のところで一瞬だけ言葉が止まる。「たぶん」が口癖。何かを隠している。
◆ルスト
鍛冶科の二年生。赤毛を短く刈っていて、無口でぶっきらぼう。ハンマーはいつも同じ高さ、同じ間隔で振り下ろす。
父は腕のいい鍛冶屋で、ベルの父の工場に鋼を納めてきた。ルストは幼いころ、床で歯車を並べるベルを後ろから見ていたという。
ベルのステッキを直すうちに、その正体と、父の新しい客の秘密に近づいていく。
◆フェーダー・クラング
蒸気楽師科の二年生。腰まである黒髪で、真鍮の管を束ねた小さなオルガンを抱えている。
クラング家は、千年のあいだ大時計の鐘を調律してきた楽師の家。一分の揺れも許さない家で、フェーダーの音はいつも揺れている。
家では弾けない音を、夕方の橋の下でこっそり鳴らしている。
◆ヘルマン・ヴェルク
蒸気管理局・第三保守課の主任。よく手入れされた口ひげの男で、懐中時計の針は三年前から止まっている。
街で増えつづける事故を、誰よりも正確に数えてきた人物。ベルと同じく七十度の限界に気づきながら、まったく別の答えを選んでいる。
◆黒い少女
時計塔の地下深く、封じられた扉の向こうに現れる。ベルと同じ背丈、同じ装甲、同じ六枚の翼。そのすべてが煤に焼かれたように黒い。
ステッキを握るのは左手。
【ベルの家族】
◆祖母
揺り椅子で繕いものをしながら、歯車の歯を数えるだけの古い歌を口ずさむ。歌はいつも同じところで途切れる。
物は捨てない。壊れたら直し、直せなくなったら別のものに作り直す。
◆父
歯車工場を営む職人。器用な手を持つが、本人は「器用なだけだ」と言う。夜明け前から工場に出ていて、朝の食卓にはいつも前掛けだけが残っている。
◆母
焦げたバターの匂いのする台所の主。いちばん得意なのは、玉ねぎを煮こんだスープ。多くは聞かず、娘が帰るまで台所の灯りをつけておく人。
【街の人々】
◆ルストの父
大柄な鍛冶屋。頼まれた鋼は一グラムも誤魔化さず、何に使うかも聞かない。それが職人の誇りだと信じている。
◆ミロ
第七街区のパン屋の男の子。蒸気管の事故の朝、ベルの制服の裾にしがみついて泣いていた。亡くなった祖父のオルゴールを探している。
◆制動会
灰色の作業着に、楔の紋の腕章をつけた男たち。黙々と街のどこかで何かを進めている。
■ 用語集
【街と仕組み】
◆クロックハイム
蒸気歯車都市。すべてが歯車と蒸気で動く街。煙突の煙と蒸気で、いつも白く霞んでいる。第一街区から順に番号のついた街区に分かれ、旧市街から学校のある高台まで、急な時計坂が伸びている。
◆大時計
時計塔の地下で、千年前から回りつづけている巨大な時計。街の心臓にあたる。大時計が止まれば、クロックハイムのすべてが止まる。
◆拍
大時計が刻むリズム。百万個の歯車を伝って街じゅうに届き、足の裏で「こつん、こつん」と感じ取れる。心臓よりすこし遅い速さ。
◆七十度
千年前の設計者が定めた、歯車の接合角度の標準。教科書には「理論上もっとも無駄のない角度」とある。
◆四十五度
ベルが工房で見つけた角度。七十度では引っかかる歯車が、四十五度に寝かせると噛み合う。教科書には載っていない。
◆歯車鳴り
この春から街のあちこちで聞こえはじめた、軋むような、歯ぎしりのような音。
◆時計塔と鐘
街の中心の広場に立つ塔。四面の文字盤と、大時計の拍を外へ伝える鐘を持つ。鐘の調律は、代々クラング家の仕事。
◆路面電車
街を走る電車。床下の駆動索を「掴み手」と呼ばれる爪車でつかみ、大時計の拍で坂を登る。
【組織と場所】
◆蒸気管理局
街の蒸気管と歯車の保守を担う役所。職員は紺の外套を着ている。時計塔の広場に本庁舎がある。
◆第三保守課
蒸気管理局の一課。主任はヘルマン・ヴェルク。
◆名前の壁
蒸気管理局の玄関広間にある黒い石の壁。仕事中に命を落とした職員の名前が刻まれている。
◆制動会
歯車の歯と歯のあいだに、楔を打ちこんだ紋を掲げる者たち。
◆学校
時計坂の上の高台にある。ベルが通う機巧科のほか、鍛冶科、蒸気楽師科などがある。地下には機巧科の工房(実習室)があり、校舎の裏手には鍛冶科の実習小屋が建っている。
◆ツァーンベルク
クロックハイムの隣町。蒸気機関車で四十分。炭坑があり、クロックハイムへ石炭を送っている。この街の歯車は、左に回る。
【魔法少女と敵】
◆魔法少女アイアン・ベル
ステッキを握り、ギアの金色の粉を浴びて変身したベルの姿。銀色の装甲と、背中に開く六枚の歯車の翼をまとう。変身した目には、歯車の歯一枚一枚まで見える。
◆ロードアウト
変身のときの名乗り。名乗らなければ、最後の一枚の歯車が噛み合わない。
◆ステッキ
倉庫の木箱に眠っていた、銀色の杖。先端に歯車の紋章があり、中では五つの小さな歯車が回っている。握りの部分だけが、長いあいだ誰かに握られていたように黒ずんでいる。
◆紋章
ステッキの先端の歯車。黒い歯車に噛ませ、角度を変えることで直す。
◆ジャミング
街に現れる黒い歯車の怪物。歯をでたらめな角度で突き出し、街の歯車に噛みついて食い荒らす。
◆シャッテンラート
影に潜む、形のない黒い歯車。靄になって歯車の継ぎ目に染みこむ。
◆黒い歯車
ジャミングの体をなすもの。煤とは違う黒をしている。砕けると金色の粒になって、空へ昇っていく。
◆蒸気楽師
音で歯車を整える楽師。歯車にはそれぞれ固有の音があり、同じ音で揺すれば回転は落ち着き、ずらした音を当てれば回転は鈍る。




