第26話 立ったよ
黒い歯車が、石畳を蹴った。
家ほどの図体が、転がるように通りを突っこんでくる。灰色の男たちが悲鳴を上げて左右に散った。麻縄が千切れ、楔の木札が宙に舞う。
ベルは逃げなかった。
眼鏡を外しても何も降ってこない。ギアがいない。
ステッキを両手で構える。変身していない腕で、あれを受ければ、今度は骨が折れる。わかっていた。わかっていて、手を離さなかった。この拍を手放せば、あれは次に、昇降機の籠を見つける。
黒い影が視界いっぱいに膨らんだ。
その影の手前で、金色の粉が弾けた。
頭の上から、降ってくる。髪に、肩に、ステッキを握った両手に。焦げた砂糖の匂いが、急に、息が詰まるほど濃くなった。
「……謝るのは、後にする」
耳もとで、かすれた声がした。
「今は、名乗って」
ベルは眼鏡を投げ捨てる。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
光は途切れなかった。
ブーツが膝まで伸び、装甲が胸を、肩を、両腕を覆う。ガントレットが左右の手に嵌まる。背中が開く。一枚、二枚。数えるより早く、六枚の翼が扇形に広がった。 視界が隅々まで澄んだ。
「魔法少女アイアン・ベル、起動」
突っこんでくる黒い歯を、真正面から紋章で受ける。
折れなかった。
新しい芯が腕の骨ごと衝撃を呑みこむ。足が石畳を削って三歩ぶん滑り、止まる。紋章の歯と黒い歯が、火花を散らして噛みあっている。
七十度。 指はもう知っていた。
寝かせる。力はいらなかった。ルストが陽の傾くまで叩いた芯が、角度だけを正確に伝えてくる。四十五度。 がちん。
腕の中で、黒い歯車が震える。噛み合った一点から金色の線が走り、黒い体の隅々まで枝分かれして広がっていく。
ベルはステッキを、ほんの半回転、ひねった。
黒い歯車が内側から弾けた。
金色の粒が通りいっぱいに噴き上がった。屋台の天幕を突き抜け、四階の窓を越え、夕焼けの空へ昇っていく。止まっていた街灯の硝子が、それを受けていっせいに光った。
◇
昇降機の籠は、地上に下りていた。
格子の扉が開いた。杖をついた老人が、灰色の男に抱えられて出てきた。老人はベルのほうを見て、何か言おうとして、言えずに、帽子を取って頭を下げた。
縄の外に、人が集まりはじめていた。
退避させられていた住人たちだ。誰かが手を叩いた。つられて、もう一人。拍手はぱらぱらと広がって、やがて通りを埋めた。
その人垣のいちばん前に、小さな男の子がいた。
パン屋の軒先で、ベルの裾を離さなかった子だった。ミロだった。胸に、あのオルゴールを抱えている。市場へ粉の仕入れに来ていたのだろう、老婦人の手を握って、顔を真っ赤にして、叫んでいる。
「立ったよ!」
声が裏返っていた。
「ぼく、泣き終わって、立ったよ!」
ベルは何か言おうとした。喉が詰まって、声にならなかった。
だから、手を振った。ガントレットの、指先の出た右手で。男の子は両手で振り返してきた。
振りながら、ベルは気づいていた。夕方の風が指のあいだを抜けていく。その冷たさが右手のどこにも届いていない。空を掻いている自分の指が、他人の指のように見えた。
勝つたびに、この指は少しずつ遠くなる。
それでも、手を下ろさなかった。
人垣の後ろで、ヘルマンが帳面を開いていた。
「第四区画、二棟。給湯と送風と、かまどの火床。十一世帯が、今夜は火を使えない」
拍手の中で、その声はベルにだけ届いた。
ベルは第四区画の壁を見た。歯の形に抉られた穴から、ひしゃげた羽根の先がのぞいている。あの窓の中の人たちも手を叩いているのかどうか、ここからはわからなかった。
ヘルマンは懐中時計の蓋を、親指で押し開けた。針は止まったままだった。
「一人を下ろして、十一世帯の火を落とした。……今日は、それで、君が正しかった」
「今日は」
紺の外套の背中が、人垣の向こうに消えていった。
肩の上に、軽いものが降りた。四枚目の翅がまだ半分しかない。
「……ギア」
「話すわ」
ギアはベルの頬のすぐそばで言った。
「私には、ひとり、守れなかった子がいるの」
それだけだった。その先を、ギアは言わなかった。
ベルも聞かなかった。夕焼けの中で、最後の金色の粒が、ゆっくりと昇っていった。
変身が解けた。ベルは右手を開いて、閉じた。もう一度、開いて、閉じた。
屋上で光を束ねた日から、指先は一度も、元の感触に戻っていなかった。




