第25話 封鎖線
第三街区の市場通りは、夕方の買い物客でいつも混んでいる。
ベルが駆けつけたとき、通りには誰もいなかった。
屋台の天幕が風に鳴っている。売り物の林檎が石畳に転がり、踏みつぶされて甘い匂いを放っていた。路面の真ん中に、麻縄が一本、通りを横切るように張られている。縄には等間隔に木札が下がっていた。
木札には歯車の歯に楔を打ちこんだ紋が焼きつけてあった。
縄の向こうで、灰色の作業着の男たちが動いていた。腕に同じ紋の腕章を巻いている。腕章の縁に、〈制動会〉と小さく縫い取りがあった。紺の外套の者はひとりもいない。彼らは手際よく、通りの両側の建物に入り、出てきては、手元の帳面に何かを書きこんでいた。
「第四区画、住人退避完了」
「第五区画、完了」
「弁を閉めろ」
低い声が通りの奥から響いた。
縄のすぐ内側に、紺の外套の男が立っていた。懐中時計を手にしている。親指の爪が留め金の上で止まっていた。
ヘルマンだった。
灰色の男たちが、路面の点検蓋に長いハンドルを差しこみ、いっせいに回した。 ハンドルが一回転するごとに、地下で何かが外れる重い音がした。一つ、二つ。点検蓋の縁から、白い蒸気が短く噴いて、止まる。
足もとで、拍が消えた。
こつん、こつん、が、この通りの石畳からだけ抜け落ちた。屋台の天幕を動かしていた送風機が止まり、街灯のシャッターが半開きのまま固まる。遠くの街区の拍が、壁一枚隔てたように、かすかに響いてくるだけだった。
通りの奥で、黒い歯車が身をよじった。
家の二階ほどの大きさだった。石畳に歯を立てて、何かを探すように首を振っている。噛みつく先がどこにもない。回っている歯車が、ひとつもないからだ。
黒い歯車の回転が、目に見えて鈍っていく。
「……止めて、飢えさせてるの」
ベルの声に、ヘルマンが振り向いた。表情は変わらなかった。
「動くものがなければ、あれは食べられない。区画ごと眠らせれば、広がらない」
「中にいる人は」
「退避させた」
ヘルマンは帳面を指で叩いた。
「全員だ。三十二世帯」
そのとき、通りの角の建物から、かすかな音がした。
金属を叩く音だった。こん、こん、こん。規則のない、弱い音。
ベルは顔を上げる。四階建ての集合住宅の、壁の外に取りつけられた昇降機の鉄の籠が、三階と四階のあいだで止まっていた。
籠の格子のあいだから、細い腕が一本、突き出ていた。
老人の腕だった。杖の先で、格子を叩いている。
「……いる」
灰色の男のひとりが、帳面をめくって青ざめた。
「四階の、独居の……名簿では、施療院に入っていることに」
ヘルマンの顎が、わずかに硬くなった。
「弁を開ければ、昇降機は動く」
ベルは縄に手をかける。
「開けたら、あれが起きる」
ヘルマンの声は静かだった。
「区画じゅうの歯車がまた回り出して、あれはそれを全部食べる。一人を下ろすために、三十二世帯の家を差し出すのか」
「だって、あの人は」
「君は、どちらかを選んだことがあるか」
「……ありません」
ヘルマンは開かないままの懐中時計を、懐に戻した。
「なら、見ていなさい。弁は閉めたままだ。昇降機は、あれが飢えて崩れてから、手で下ろす」
「それ、いつ」
「わからない。一時間か、一晩か」
昇降機の籠が風に揺れて、ぎい、と鳴った。杖の音が、さっきより弱くなっていた。
ベルの手の中で、ステッキが拍を刻んでいた。かち、かち。新しい芯の、深い拍。この通りで、回っている歯車はもう、それしかなかった。
飢えた歯車は、回っているものに寄ってくる。
ベルは縄をくぐった。いちばん手前の点検蓋に、ハンドルが差さったままになっている。両手で握った。
手首を、革の手袋がつかんだ。
「君ひとりで、区画ぶんの歯車を守れるのか」
「守れません」
ベルは言った。声が裏返らなかったのが、自分でも不思議だった。
「だから、あれには、私のほうへ来てもらいます」
ギアはいない。変身はできない。わかっていた。
ヘルマンの指がゆるんだ。ゆるめたのか、振りほどいたのか、ベルにはわからなかった。
ハンドルを回す。重い。一回転。地下で、外れていたものが噛み合う音がした。二回転。
足もとに、こつん、こつん、が戻ってきた。
昇降機の籠ががくんと揺れ、きしみながら下りはじめる。送風機が回りだし、天幕がはためいた。 通りの奥で、黒い歯車が跳ね起きた。
いちばん近い第四区画の壁に、歯を立てる。壁の内側で、何かが噛み砕かれる音がした。窓の奥で皿が落ちて割れる。隣の棟。また、砕ける音。
ベルはステッキを高く掲げ、握りの歯車を指で弾いた。かち、かち、かち。
「こっち」
黒い歯車が、壁から歯を抜いた。
首を、ゆっくりと、こちらへ向ける。 縄の内側に立つ、ベルの手の中へ。




