第24話 私の手
八番目の歯車が、指のあいだから落ちた。
作業台の上で一度跳ね、床に転がって、工房の隅の暗がりへ消えていく。からから、と細い音がして、止まった。
放課後の工房には、ベルのほかに誰もいなかった。窓の外はもう薄暗く、旋盤の列が長い影を床に落としている。切削油の匂いに、湿った石の冷たい匂いが混じりはじめていた。
しゃがんで、手探りで歯車を探す。石の床は冷たいはずだった。右手の指先にはその冷たさが届かなかった。ざらついた砂も、油の染みも、何もかも、薄い布を一枚隔てたように遠い。
左手で探して、ようやく見つけた。 作業台に戻り、今度は左手でつまむ。噛ませる前に、右手の人差し指で歯の背を叩こうとした。
こつ、が、鳴らなかった。 指は確かに歯に当たっているのに、音が指に返ってこない。叩いた手応えがどこにもない。
ベルは自分の右手を見下ろした。 爪の間の真鍮の粉。細い傷。十年、歯車を組んできた指。父に「組むのが上手い手だ」と言われた指。
「……ギア」
カーテンレールの代わりに、工房の梁の上がギアの定位置になっていた。四枚目の翅はまだ半分しか戻っていない。
「なに」
「この指、戻るの?」
ギアは梁の上で翅を畳んだ。
「……戻るわよ。たぶん」
たぶん。 屋上でもそう言った。祖母の前で眼鏡をつまみ損ねたときも、ベルは頭の中でその言葉を繰り返していた。
「たぶんって、何回言うの」
自分の声が思ったよりも大きく工房に響いた。
「屋上のときも、たぶんだった。戻らなかったよ。半分しか戻らないうちに、また撃って、また抜けて。今、八番目の歯車の音が、聞こえないんだよ」
「ベル」
「私の手なんだよ」
喉の奥が熱くなった。止められなかった。
「歯車を組む手なんだよ。これがなくなったら、私、なんにも残らない。魔法少女なんか、なりたくてなったんじゃない。私は、お父さんみたいに、歯車を」
声がそこで割れた。
ギアは、梁の上で、小さな体を丸めていた。返事の代わりに、翅がぱたりと閉じた。 ベルは袖で目をこする。眼鏡がずれて、世界が傾いた。
「……あなた、何か隠してるでしょ」
ギアの翅がぴくりと動いた。
「最初から。私の名前を呼ぶとき、クロックワークのところで止まった。ステッキの握りの話が出ると、黙る。おばあちゃんの歌が地面の下から聞こえても、何も言わない」
「……」
「このステッキ、誰のだったの」
長い沈黙があった。
工房の天井を、上の階の足音が横切っていった。ガス灯のシャッターが、日暮れに合わせて、かちりと半分開いた。 ギアが梁の上で立ち上がった。
「言えないことが、あるの」
ギアの声は今まで聞いたどの声よりも小さかった。
「ごめんなさい」
金色の粉が一粒だけ梁から落ちた。
それきり、ギアの姿は消えていた。焦げた砂糖の匂いも、しなかった。
ベルは作業台に両手をつく。ひとりの工房はいつもよりずっと広かった。
言わなければよかった、とは思わなかった。言ったことは全部本当だった。それでも、梁の上の空いた場所から、目が離せなかった。あの小さな体を丸めていた形のまま、そこだけ埃が薄い。
床に落ちた金色の粉の一粒を、左手の指でつまもうとした。粉は指先で崩れて、消えた。 遠くで、サイレンが鳴りはじめた。
管理局の警報だった。第三街区の方角。一度、二度、三度。途切れずに鳴りつづける。 ベルはステッキを握る。新しい芯が深い拍を刻んでいる。 眼鏡を外しかけて、手が止まった。
ギアの粉がなければ、変身はできない。




