第22話 押し上げる手
家の玄関の灯りが、雨ににじんでいた。
扉を開けると、煮こんだ玉ねぎの匂いと、ストーブの乾いた熱が顔にかかった。濡れた制服から、足もとの床に泥水がぽたぽたと落ちる。
台所から顔を出した母が、お玉を持ったまま固まった。
「……どこで、何して」
「広場。電車が倒れて、人を運ぶのを手伝ってた」
嘘ではなかった。ルストがそうしていたのを、ベルは見ていた。
母はしばらくベルの顔を見て、それから何も聞かずにタオルを投げてよこした。
「先にお風呂。眼鏡も、それ」
右のレンズは放射状に割れ、鼻あてが片方なかった。かけていると、世界が二つにずれる。
脱衣所で制服を脱ぐと、泥が乾きかけて、布がごわごわと肌から剥がれた。膝には擦り傷が三つ。脇腹には石畳で跳ねたときの青い痣が広がっている。鏡に映った自分の顔は、額の絆創膏が泥で茶色く染まっていた。
湯船に沈むと、指先がじんじんと疼いた。右手の五本は湯の熱さをほとんど感じなかった。左手の火傷の跡だけが、湯の中でひりひりと鳴った。
目を閉じると、あの歌が聞こえる気がした。 大時計の拍の、もっと下から。
勝てなかった。黒い歯車は地下へ逃げた。その下で、誰かが祖母の歌を歌っている。 知らなければいけないことは、二つだった。あの歌が何なのか。そして、どうすればステッキを、あの化け物に通じるものにできるのか。
湯気の向こうで、台所の母が鍋をかき回す音がする。居間の柱時計が、こつん、こつん、と大時計の拍に合わせて振り子を揺らしている。いつもと同じ夜の音が、今夜はなぜか、どれも薄い膜の向こうにあった。
◇
祖母は居間の揺り椅子で繕いものをしていた。
膝の上にはベルが小さいころに着ていた上着が広げてある。肘に当てた継ぎ布は、もう三枚目だった。祖母は物を捨てない。壊れたら、直す。直せなくなったら、別のものに作り直す。父の手先の器用さは、この人から来たのだと、母がよく言っていた。
ストーブの上でやかんが細い湯気を上げている。糸を通した針が灯りを受けてときどき光った。
ベルは濡れた髪をタオルでくるんだまま、祖母の足もとに座った。
「おばあちゃん。あの歌、もう一回歌って」
「どの歌」
「歯車の歯を数えるやつ」
祖母の針が止まった。
髪の中で、何かが、かすかに身を固くした。ベルは湯上がりの髪が乾きかけて、突っぱっているせいだと思った。
「あれは、小さい子の歌よ」
「今日、聞いたの。……外で」
どこで、とは言えなかった。地面の下で、とは。
祖母は針を布に刺したまま、ベルを見た。ベルは割れた眼鏡をかけ直そうとして、つまんだ指先がつるの上で滑った。感覚のない右手を下ろし、左手首の内側で、眼鏡を押し上げた。
祖母が、息を止めた。
ほんの一瞬だった。けれど、揺り椅子の軋む音まで止まったのを、ベルは聞いた。
「……その押し上げ方」
祖母の声がかすかに揺れた。
「誰に、習ったの」
「え? 誰にも。手が汚れてるとき、こうするでしょ」
祖母は答えなかった。繕いものを膝から下ろし、立ち上がる。
「もう寝なさい。明日、眼鏡屋に行くのよ」
それだけ言って、祖母は奥の部屋へ入っていった。歌は歌ってくれなかった。
◇
夜更け。 祖母の部屋の灯りは、まだ消えていなかった。
祖母は箪笥のいちばん下の引き出しを開け、古い缶を取り出した。蓋の縁が錆びて、開けるとき、きし、と鳴った。
中には端の欠けた写真が一枚入っていた。
色の褪せた工房の前で、眼鏡をかけた少女が笑っている。少女は油で汚れた両手を胸の前に上げて、手首の内側で、眼鏡を押し上げかけていた。
少女の肩のあたりに、小さな光のにじみが写っていた。
写真の裏には褪せたインクで短い書きこみがあった。祖母の指がその文字の上をゆっくりとなぞる。
祖母はその写真を、長いあいだ見ていた。
やがて缶の蓋を閉め、引き出しの奥へ戻した。灯りが消えた。暗い部屋の中で、古い歌の最初の一節だけが、ごく小さく、一度だけ聞こえた。




