第21話 三割
眼鏡を外した。
世界がにじんで溶ける。そのにじみの中で、ステッキだけが手の中で、確かな拍を刻んでいた。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
光は途中で途切れた。 ブーツが膝まで伸びかけて、脛の途中で止まる。胸の装甲は半分だけ。ガントレットは右手にしか現れなかった。背中が開く感触があって、数えると、翼は三枚しかなかった。
視界は澄まなかった。
左半分だけがくっきりして、右半分はにじんだままだった。ひびの入った眼鏡と、同じ見え方だった。 それでも、走った。
掘り進む黒い歯の、いちばん先端に向けて光を撃つ。三割の光は細く、頼りない。当たる。弾かれない。歯の表面に張りついて、その一本の動きが、一瞬だけ止まった。
一瞬だけ。 その一瞬のあいだ、土台の石が一枚、砕かれずに残った。
もう一発。一瞬止まる。石が一枚残る。
もう一発。 勝てない。倒せない。けれど、一発ごとに、ほんのわずかずつ遅らせることはできる。
広場の反対側で、ルストが声を張り上げていた。傾いた路面電車の窓から、乗客をひとりずつ引きずり出している。子供を抱えた女が、老人の手を引いた男が、雨の中を広場の外へ走っていく。
撃つたびに、右手の指先から感覚が抜けていった。 屋上で光を束ねたときと同じだった。指の腹が布越しに触れているような鈍さに変わっていく。親指と人差し指の区別が、だんだんつかなくなる。
五発目で、光が出なくなった。
管の継ぎ目から蒸気が漏れるばかりで、先端は冷たいままだった。膝が泥に落ちた。黒い歯がまた土台に食いこむ。
そのとき、音がした。 腹の底に響く、低い音。半音ずれた、よく知っている音。 時計塔の石段の上に、フェーダーが立っていた。
黒髪がずぶ濡れで、肩に貼りついている。オルガンの裂けた管の口が、細い布で縛ってあった。彼女の髪を結んでいたはずの布だった。
金色の波紋が雨の中を広がっていく。黒い歯の動きが目に見えて重くなった。
「父さんには、橋の下で練習してくるって言ってきた」
弾きながら、フェーダーが叫んだ。
「嘘だけど!」
ベルは泥から膝を抜いた。
息を吐き、管の継ぎ目を右手で押さえつける。感覚のない指で。漏れていた蒸気が、わずかに先端へ回った。
撃つ。細い光が重くなった歯に今度は深く食いこむ。フェーダーの音と光が、黒い歯の上で重なった。 黒い歯車が掘るのをやめた。
一瞬、全体が震えた。ベルは身構えた。崩れる、と思った。 崩れなかった。
黒い歯車は自分の掘った穴の中へ、沈んでいった。砕いた石も、食い荒らした地中の歯車も、歯に噛んだまま引きずりこんで。最後の歯が見えなくなると、穴の縁の石畳が内側へ崩れ落ちて、口をふさいだ。
広場に、雨の音だけが残った。
倒していない。逃げられた。
変身が解ける。三枚の翼が光になってほどけていく。泥の中に座りこんだベルの肩に、何かが降りてきた。
ギアだった。四枚の翅のうち、一枚が根元から裂けていた。光が今にも消えそうに弱かった。
「……ばか」
ギアの声がかすれていた。
「三割で、突っこんで」
「……うん」
ルストが走ってきた。フェーダーがオルガンを抱えて石段を下りてきた。誰も口を開かなかった。
ベルは崩れた穴の縁まで這っていった。
なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。濡れた石畳に頬を押し当てる。
冷たい。
その奥から、こつん、こつん、と拍が伝わってきた。大時計はまだ動いている。心臓よりすこし遅い速さで。
その拍の、もっと下から。
別の音がかすかに聞こえた。 誰かが、歌っていた。
節の短い、古い歌だった。歯車の歯を一枚ずつ数えていくだけの。
祖母が針仕事をしながら口ずさむのと、同じ歌だった。




