第20話 泥
影が落ちてくる。
ぼやけた視界の中で、それはただの暗さだった。雨の灰色が上から順に黒く塗りつぶされていく。
体が動かなかった。 横から、何かがぶつかってきた。
肩を掴まれ、そのまま水たまりの外へ転がされる。一瞬前まで背中をつけていた場所に、黒い歯が突き刺さった。石畳が砕け、泥水が壁になって降ってくる。
「立て!」
ルストの声だった。耳のすぐそばで。
「今は退け!」
腕を引かれるまま、泥の中を這った。途中で、指先に硬いものが触れた。眼鏡だった。掴んだ。それから、折れたステッキの柄も。
広場の端の路地に転がりこんだ。軒下の石段に、二人で背中をつけて座りこむ。 雨の音が急に遠くなった。 ベルは眼鏡をかけた。
右のレンズに、中心から放射状のひびが走っていた。左目で見る世界ははっきりしているのに、右目の世界は割れた硝子の形に何重にもずれている。二つの世界が重ならなかった。
「ギアは」
肩に手をやった。何もいなかった。吹き飛ばされたときに、はぐれたのだ。 膝の上に、折れたステッキがあった。
軸が真ん中から曲がり、先端の紋章は根元から千切れてなくなっている。千切れた管の口から、しゅう、しゅう、と細い蒸気が漏れつづけていた。握りの黒ずんだところだけが、泥にまみれても色を変えずに残っていた。
「……勝てない」
声が、勝手に出た。
「私じゃ、勝てない」
ルストは答えなかった。前腕の包帯が雨を吸って、鎖の跡の赤が滲んで透けていた。
広場のほうから、地面の砕ける音が続いている。一度。また一度。そのたびに、座っている石段が小さく震えた。
「見せろ」
ルストが手を出した。 ベルはステッキを渡した。ルストは曲がった軸を雨の明かりにかざし、外殻の割れ目を指でこじ開けた。
「……中の歯車は、生きてる」
ベルも覗きこんだ。五つの歯車は一枚も欠けていなかった。曲がった軸に押されて噛み合いがずれているだけで、どれもきれいなままだった。
「軸から先に折れるように、作ってあるんだ」
ルストが低く言った。
「歯車を守るために。設計したやつは、ここまで考えてた」
ベルは握りの黒ずみを見た。 この手の持ち主も、いつか、こうして折ったことがあったのだろうか。
「軸は叩けば戻る。管は、つなぐものがいる。それと、歯車を留めるねじだ。小さいやつ」
ベルはポケットを探った。工房で使った銅線の切れ端が、一本だけ出てきた。 ねじ。 指が自分の眼鏡の鼻あてに触れた。細いねじが一本ずつ留まっている。
ベルは眼鏡を外し、爪の先でねじを回した。
「おい」
「左目は生きてるから」
鼻あてが片方外れた。眼鏡をかけ直すと、右の視界がさらに傾いた。
ルストは短く息を吐き、路地の石をいくつか拾っては捨てた。三つ目で手を止める。表面が平らで、目の詰んだ御影石だった。それを石段に据えて金床にし、軸を載せる。もう一つ、角の鋭い欠片を選んで握った。
軸を雨の明かりにかざし、片目をつむって歪みの頂点を探す。指の腹でなぞり、爪で一か所に印をつけた。
叩く。かん。軸を四分の一回して、また覗く。かん。叩くたびに角の当たる場所をわずかにずらし、曲がりを一点ずつ押し戻していく。雨の中で、いつもの拍が鳴った。
ベルは銅線で管を巻き、ずれた歯車を指で噛み合わせ直し、眼鏡のねじで留めた。 手を離す。
歯車が回った。軋みながら。ところどころで引っかかりながら。管の継ぎ目から蒸気が漏れ、先端に届く息はひどく弱い。
「三割ってとこだ」
ルストが言った。
「さっきの化け物には、通じない」
ベルは立ち上がった。膝が笑っていた。
「行くのか」
「行く」
「壊れるかもしれないぞ。お前が」
「壊れたら、直して」
「直すたびに、お前のほうが先に壊れていくじゃねえか」
ルストの声が雨の中で割れた。拳が石段を叩く。包帯の下で、鎖の跡がまた赤く滲んだ。
「俺は、鋼しか直せねえんだぞ」
ベルは答えなかった。ルストは濡れたハンマーの柄を握りしめた。
「……ああ。直す」
路地の出口まで走った。 広場が見えた。黒い歯車はもうこちらを向いていなかった。 歯を揃えて、真下を掘っていた。石畳を砕き、地中の歯車を砕き、その下の土を掻き出して、ひたすら深く。
掘り進む先にあるのは、時計塔の土台だった。
「……大時計に」
ベルの声は、雨に消えた。
「食べに行くつもりだ」




