第19話 雨
朝から雨だった。
煙突の先が雨雲の中に消えて、街じゅうの蒸気が低く垂れこめている。路面電車のレールが鈍く光り、歯車の拍に、雨粒が石畳を叩く音が混じっていた。 その朝、台所で、祖母がまた鼻歌を歌っていた。歯車の歯を一枚ずつ数えていく、あの短い節だった。
「その歌、誰の歌?」
ベルが聞くと、祖母は繕いものの針を止めた。
「母さんがよく歌ってたの。母さんの、お姉さんが作った歌だって」
それだけ言って、祖母はまた針を動かしはじめた。もう鼻歌は歌わなかった。
◇
ベルは放課後の工房で、爪車の模型を分解していた。 組み直すつもりはなかった。ただ、手を動かしていないと、あの部屋のことを考えてしまう。赤い針の渦。瓶の中で座金を噛みつづける黒い欠片。止まった懐中時計。 大時計を止めたら、この街はどうなるのか。あの朝の七秒でさえ、電車が坂を滑り落ちかけた。七秒で済まなければ。 考えるたびに、同じところで行き止まった。 あれから、橋の下に三度寄った。三度とも誰もいなかった。濡れた石段に、オルガンの湯気の跡さえ残っていなかった。 ルストの前腕の包帯は、まだ取れていない。卒業制作の刃は、布をかぶせたまま炉の脇に置かれている。フェーダーの裂けた管は、誰が直したのだろう。 窓が白く光った。 一拍遅れて、空気がびりびりと震えた。工房のガス灯が一瞬細くなり、また戻る。 肩の上で、ギアが翅を広げた。四枚とも、見たことのない濃い橙に光っている。
「……大きい」
ギアの声が硬かった。
「今までで、いちばん」
床が揺れた。 作業台の上で、分解した爪車の部品が跳ねた。揺れは一度では収まらず、足の裏から、ずん、ずん、と重いものが近づいてくるように続いた。時計塔の方角からだった。 ベルはステッキを掴んで、工房を飛び出した。
◇
雨の中を走った。 石畳が滑る。水たまりを蹴るたびに、泥の混じった水が膝まで跳ねる。眼鏡のレンズに雨粒がついて、街灯の光がにじんで割れた。 逆の方向へ、人が走っていく。傘を放りだした男。濡れた洗濯籠を抱えたままの女。誰もベルを止めなかった。 広場に出た。 見上げなければ、全体が見えなかった。 黒い歯車が時計塔と肩を並べて立っていた。この前の広場のものとは、大きさが違う。歯の数も数えようとしてすぐにやめた。何十本もの歯が、ばらばらの角度で突き出している。七十度。八十度。九十度を越えたものまである。どの角度も、何ひとつ噛み合っていなかった。 そのでたらめな歯が、広場の地面に噛みついた。 石畳が水ごと弾け、地中の歯車が、生き物の悲鳴のような音を上げた。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
装甲が雨を弾き、視界が澄む。雨粒の一つ一つが、空中で止まって見えた。 ステッキを構え、光を束ねる。白と金のよじれた線が、黒い歯の一本に突き刺さる。 弾かれた。 光は歯の表面で砕けて、雨の中に散った。散った光を雨粒が受けて、一瞬だけ広場じゅうがきらめく。黒い歯には傷ひとつなかった。 二発目。三発目。出力を上げるたび、手首の骨がきしむ。結果は変わらなかった。
「中心軸は」
「見えない!」
ギアが叫んだ。
「地面の下よ。あれ、上に出てるのは歯だけなの」
黒い歯の一本が、こちらへ向きを変えた。 横薙ぎに来るのが見えて、ベルはとっさにステッキを立てた。受けきれる重さでないことは、腕より先に手首が知っていた。 折れた。 軸の中ほどで、乾いた枝を踏んだような音がした。紋章が雨の向こうへ飛び、千切れた管が白い息を吐く。ベルの体は石畳で二度跳ね、水たまりの底に背中から落ちた。 口の中が泥の味だった。 眼鏡を探そうとして、変身が解けていることにようやく気づいた。 にじんだ世界の上で、黒い影がもう一度、持ち上がった。




