第17話 止まった時計
四階の廊下のいちばん奥に、その部屋はあった。
扉の真鍮板に〈第三保守課〉と刻んである。中はパイプ煙草と機械油の匂いがこもり、机の上にも床にも、巻いた図面が積まれていた。 壁一面に、街の地図が貼られていた。 通りの線に沿って、無数の赤い針が刺さっている。時計塔を中心に、針は渦を巻くように密集していた。針の頭には日付を書いた小さな紙が結んである。
「蒸気管の破裂と、歯車の破損。この十年分だ」
男は地図の前に立った。
「十年前は、年に四十。去年は三百を超えた。今年は、春だけで去年を越えている」
針の密度は塔に近づくほど濃くなる。赤い渦の中心で、地図の紙が針の重みでたわんでいた。 男は地図の端を指で叩いた。線路が街の外へ出ていくあたりだった。
「運河広場のガラクタ市で、誰かが叩き割った欠片を拾った。左に回っていた。先週、ツァーンベルクまで確かめに行った。向こうでも、同じものが湧いている。向こうの大時計も、設計は七十度だ」
男はそこで一度だけ、ベルの顔を見た。
「ヘルマン・ヴェルク。この課の主任だ」
男は名乗り、机の引き出しを開けた。 引き出しの手前に、真鍮の印章がひとつ転がっていた。握りの部分が黒く光り、印面が上を向いている。歯車の歯と歯のあいだに、楔を打ちこんだ紋。 ベルの指がノートの端をつかんだまま固まった。 ヘルマンは印章を奥へ押しやり、その手で硝子の瓶を取り出した。 中に、黒い欠片が入っていた。第七街区の裂け目から、この人が拾っていったものだ。瓶の底には真鍮の座金が一枚、一緒に入れてあった。 黒い欠片はその座金を噛んでいた。 ほとんど見えない速さで、少しずつ。瓶を机に置く、こつんという音にも、止まろうとしなかった。
「これが何か、君は知っているだろう」
ベルは答えなかった。
「この前、広場で黒い歯車が崩れた。金色の粒になって。崩したのは、翼の生えた女の子だったそうだ」
ヘルマンの目がベルの右手に落ちた。ノートを押さえている指先が、まだ白くふやけている。
「……知りません」
「そうか」
ヘルマンは答えを待っていないようだった。
「千年前の設計者たちは、摩耗しない前提で七十度を選んだ。確かに無駄はない。だが、滑る余地もない。すり減った歯は、滑れずに砕ける。砕けた歯が、隣の歯を噛む」
「だから、四十五度に」
言いかけたベルを、ヘルマンは手で制した。
「この街の歯車を、全部か。百万個を」
声は荒くなかった。むしろ、疲れていた。
「一日に十個直せたとして、二百七十年かかる。直しているあいだにも、管は裂ける。直せないものを直せると信じて、延命させる。そのあいだに、人が死ぬ」
ヘルマンは壁の地図の一点を指さした。第二街区。針が一本だけ、ほかより太い。
「弟は、延命の途中で死んだ」
「でも」
ベルは自分の声が震えているのに気づいた。
「大時計を止めたら、全部止まります。電車も、病院のポンプも。あの朝、七秒で電車が坂を滑りかけました」
「知っている。報告書を書いたのは、この課だ」
ヘルマンは地図の上の赤い渦を指でなぞった。
「一度に止めれば、人が死ぬ。だから順番に止める。病院を移し、電車を停め、管の圧を一本ずつ抜いて、街を眠らせてから、最後に心臓を止める。そのための準備を、三年かけてしてきた」
硬い鋼、二十トン。時計塔の地下搬入口。ベルの頭の中で、注文書の字が並んだ。 ベルの喉がひとりでに鳴った。 ヘルマンは外套の内側から、今度こそ懐中時計を取り出した。親指の爪で留め金を弾く。ちり、と鎖が鳴って、蓋が開いた。それを机の上に置く。 針は止まっていた。
「三年前から、止めてある」
ヘルマンはベルのノートを手に取り、あの一行を指でなぞった。
「君の言うとおりだ。七十度が、この街を壊している」
指がページの上で止まった。
「だから、止めなければならない」
窓の外で、時計塔の鐘が四時を打った。 鐘の音はやはりどこか濁っていた。
「止めるって」
ベルの声は自分でも驚くほど小さかった。
「何を、ですか」
ヘルマンは窓の外の塔を見上げたまま、答えた。
「大時計を」




