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第16話 名前の壁

 フェーダーは立ち上がった。


 膝の上から滑り落ちそうになったオルガンを、両腕で抱えなおす。


「誰にも。自分で」


「半音、下げていたな。水門の固有音から、わざと外して」


 男の目は娘の顔ではなく、裂けた管を見ていた。


「楽器を壊すような弾き方を、うちでは教えていない」


「知ってる」


「帰るぞ」


 それだけ言って、男は背を向けた。ベルのほうは一度も見なかった。 フェーダーはすぐには動かなかった。オルガンを抱えた腕に、ぎゅっと力がこもる。やがて、父親の背中を追って歩きだした。 橋のたもとで、彼女は振り返らずに言った。


「ベル。あの鐘、父さんの調律のせいじゃない。……それだけ、誰かに言いたかった」


 燕尾の背中と黒髪が、角を曲がって見えなくなった。 ベルは橋の下に残された、湿った石を見ていた。フェーダーが座っていたところだけ、すこし乾いていた。


 水門には管理局の足場が組まれ、扉の下半分は厚い板で塞がれた。逃がした二体がどこへ潜ったのかは、誰にもわからなかった。


 次の日も、その次の日も、橋の下からは何も聞こえなかった。


 夕方、時計塔の鐘が鳴るたびに、ベルは耳をすました。濁りは消えていなかった。フェーダーの父親は、今夜も眠らずに鐘を調律しているのだろうか。


          ◇


 蒸気管理局の本庁舎は、時計塔の広場に面して建っていた。 花崗岩の階段を上がると、真鍮の回転扉がある。押すと、油の切れかけた軸がきいと鳴った。中は高い天井に声が反響して、紙とインクと、湿った外套の匂いがした。


 ベルはノートと、爪車の模型を抱えていた。 窓口の前には長い列ができていた。家の暖房管が鳴りやまないという老人。店の昇降機が途中で止まったという商人。誰もが同じ冊子を握らされて、同じ顔で帰っていく。ベルの番が来るまでに、柱時計の針が半周した。


 窓口の職員はノートの一ページ目に目を落とし、二ページ目をめくらずに閉じた。


「大時計の件は、定期点検です。発表したとおり」


「点検で、電車の掴み手が外れるんですか」


「外れた電車は、その後正常に運行しています」


 職員は窓口の脇から、薄い冊子を一枚抜いてベルに差し出した。表紙に〈歯車鳴りは異常ではありません〉と刷ってある。電車の中の貼り紙と、同じ字だった。


 ベルは冊子を受け取らずに、窓口を離れた。 玄関広間の奥の壁が、目に入った。 黒い石の板が天井近くまで貼られている。近づくと、細かい文字がびっしりと刻まれていた。名前と、年と、場所。いちばん上の方は、風化して読めない。下へ行くにつれて、刻みが新しくなる。


 殉職者、と端に小さく彫ってあった。 手を当てると、石は冷たかった。刻まれた溝に、指の腹がひっかかる。 いちばん下の段に、まだ角の立った文字があった。


〈エルンスト・ヴェルク 第二街区本管 三年前〉


 その名前の下にだけ、小さな花が供えてあった。鉄を叩いて作った、錆びない花だった。


「第二街区の、本管破裂だ」


 背後で声がした。 振り向くと、紺の外套の男が立っていた。よく手入れされた口ひげ。第七街区の蒸気の中で、ベルの手を見ていた人だった。


「七十度で噛んでいた継ぎ手が、摩耗で滑った。三十秒で、本管が裂けた」


 男は石の名前を見ていた。ベルのほうを向いたのは、しばらくたってからだった。


「手は、もう治ったか」


「……だいたい」


 男の目がベルの抱えたノートに落ちた。開いたページに、〈大時計停止7秒 掴み手の爪70°で空転 45°で即時噛合〉と書いてある。


 男の目がその一行の上で止まった。指先で紙の端を押さえたまま、動かなかった。


「誰に習った」


「誰にも。自分で、です」


 男は外套の内側に手を入れ、懐中時計を取り出しかけて、その手を止めた。


「上へ来なさい」


 踵を返しながら、男は言った。


「見せたいものがある」

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