第15話 水門
八つ。
護岸の石積みに沿って、黒い歯車が水から這い上がってくる。石の継ぎ目に歯をかけ、そのまま中へ潜りこんでいく。壁の奥には水門の扉を支える巻き上げの歯車が埋まっているはずだった。 石積みの内側で、ぎしり、と重いものが軋んだ。
「逃げて、フェーダー」
ベルは鞄からステッキを抜き、眼鏡を外した。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
光が橋の下を満たし、水面が金色に揺れた。背後でフェーダーが息を呑む音がした。 いちばん近い一体に飛びつく。紋章を噛ませ、寝かせる。がちん。砕けて、金の粒になって散った。
二体目。水しぶきを浴びながら石積みを蹴る。噛ませる。砕ける。 三体目に手を伸ばしたとき、背後で石が割れた。
振り返る。水門のすぐ脇の石積みが、内側から膨らんでいた。残りの五体が同じ一点に集まって食い進んでいる。水門の扉がわずかに傾いた。扉の隙間から、白い筋になって水が噴き出す。
下流にはさっきの平底船がいる。 一体ずつでは間に合わない。
「ベル!」
声は橋の上から降ってきた。 フェーダーが欄干の上に立っていた。逃げていなかった。オルガンを胸の前に構え、濡れた前髪を額に貼りつかせている。
「その歯車、回る速さ、全部同じ?」
「たぶん! 大きさが同じだから!」
「なら、届く」
フェーダーの指が鍵を叩いた。 さっきとは違う、半音ずれた低い音だった。音が水面を渡っていくのが、ベルの目にも見えた。金色の波紋になって、石積みに、黒い歯車に、次々と触れていく。
黒い歯車の回転が、鈍った。 五体同時に。泥の中を回っているように、歯の動きが重たくなる。
「今のうち!」
ベルは石積みを駆け上がった。三体目。噛ませる。四体目。五体目。フェーダーの音が途切れずに続いている。橋の上から、ふいごのように鳴る管の息づかいが聞こえた。 六体目を砕いたところで、その音に、ひびが入った。
ぴい、と高く裂けるような音が混じる。見上げると、オルガンの管の一本から、白い蒸気が横に漏れていた。フェーダーは鍵を叩きつづけた。指先が赤くなっている。音は、もう出なかった。 残りの二体が、泥から抜けたように速くなった。
一体が水門の巻き上げ歯車の、最後の歯に食いついている。もう一体がその軸に。扉がさらに傾く。噴き出す水の筋が太くなり、足もとの石が濡れて滑る。 紋章を突き出す。噛ませる。寝かせる。
滑った。 二体ぶんの回転に、扉の重さが乗っている。四十五度まで寝かせる前に、紋章が歯の背で空転した。もう一度。今度は両腕で押しこむ。腕の骨が軋む。力じゃ無理よ、といつかのギアの声が頭の中で鳴った。
ばきん、と下の蝶番が弾けた。
扉の下半分が外へ開いた。運河の水がひと塊になって下流へ走る。黒い歯車は二体とも歯を離し、茶色い流れの中へ沈んでいった。
追えなかった。扉が、まだ開いていく。 ベルはステッキを石積みに突き立て、扉の縁に両手をかけた。装甲の指が鉄板に食いこむ。翼が全開で蒸気を吐く。押し戻す。扉は半分まで戻って、そこで動かなくなった。
下流で、平底船が護岸に押しつけられていた。積んでいた石炭の袋がいくつも水に落ち、流れていく。船頭が竿で護岸を突きながら、何か叫んでいた。 黒い歯車の姿は、もうどこにもなかった。
◇
変身を解いて橋の上に上がると、フェーダーは欄干にもたれて座りこんでいた。 膝の上のオルガンの管が、一本だけ根元から裂けている。鍵を押していた右手の指先は、皮がむけて血がにじんでいた。
「……役に立った?」
フェーダーはベルの顔を見ずに聞いた。
「立った。いなかったら、扉が全部開いてた。……二つ逃がしたのは、私」
「そう」
フェーダーは裂けた管を指でなぞった。
「これ、父さんの工房で直してもらえないな。どう弾いたら、こうなるのかって聞かれる」
笑おうとして、うまく笑えていなかった。 石畳を踏む靴音が、橋のたもとから近づいてきた。硬い革底の、規則正しい足音。
フェーダーの肩がこわばった。 黒い燕尾の上着を着た、背の高い男だった。胸に銀の鎖を垂らし、その先に細長い音叉が揺れている。男は運河の水面を見て、水門を見て、最後にフェーダーの膝の上の、裂けた管を見た。
「フェーダー」
低い、よく通る声だった。
「今の音を、どこで覚えた」




