第14話 橋の下の旋律
運河の水は、雨上がりの石と藻の匂いがした。
第五街区の岸辺を、ベルは寄り道して歩いていた。荷を積んだ平底船が、蒸気機関をぽんぽん鳴らしながら水門のほうへ下っていく。水面に映った煙突の列が、船の起こす波で折れては戻った。
注文書の赤い紋のことを、誰に言えばいいのかわからなかった。ルストは父親に聞いてみると言った。それきり、一週間たっている。
時計塔の地下に、なぜ硬い鋼が二十トンも要るのか。大時計の修理なら、管理局が自分の名前で注文すればいい。名前を伏せて、楔の印だけを押す理由が、ベルには思いつかなかった。
橋のたもとで、足が止まった。 音がしていた。 橋の下から、細い旋律が漏れてくる。蒸気の噴く音が拍を刻み、その上を金属の弦がすべっていく。跳ねるような節回しなのに、ところどころで息を継ぐように揺れた。 石段を下りた。
湿った橋桁の陰に、少女がひとり座っていた。腰まである黒髪を、首の後ろでゆるく結んでいる。膝の上に、真鍮の管を何本も束ねた小さなオルガンを抱えていた。白い指が鍵を押すたび、管の口から細い湯気が立つ。
目を閉じて弾いていた。オルガンの管は使いこまれて、指の触れるところだけ真鍮の地が明るく光っている。湯気には、蜜蝋と、熱した油の甘い匂いが混じっていた。 ベルは石段の途中で、最後の一音が水面に溶けるまで立っていた。 少女の目が開いた。
「……聞いてた?」
「聞いてた。ごめん」
「謝らなくていいけど」
少女はオルガンの鍵を指でなぞった。
「うちで弾くと、怒られるの。揺れてるって」
「揺れてるの、だめなの?」
「うちは楽師の家だから。大時計の鐘を、何代も調律してきた家。鐘は、一分の揺れもなく鳴らなきゃいけない。揺れた音で、千年はもたないって」
フェーダー、と少女は名乗った。蒸気楽師科の二年だという。ベルも名乗ると、機巧科、と聞いて、フェーダーはすこしだけ目を丸くした。
「歯車屋さんね」
「……歯車屋さん」
そう呼ばれたのは初めてで、ベルは思わず繰り返した。悪い響きではなかった。 蒸気楽師の仕事は、演奏だけではないらしい。工場の歯車が軋んだとき、そこに合う高さの音を当てて、回転を整える。歯車にも叩けば鳴る固有の音がある。同じ音で揺すれば回転は落ち着き、逆の位相で当てれば遅くなる。
ベルはステッキを入れた鞄をいつのまにか握りしめていた。
「触らなくても、直せるってこと?」
「音が届けばね。ただ、正確すぎる音は、表面にしか届かない。父さんはそれを認めない」
フェーダーはほんのすこし唇を噛んだ。
「今朝の……ううん、この前の、八時の鐘。聞いた?」
「聞いた。電車の中で」
「父さんは、調律の狂いだって。あれから一晩も寝てない。でも、私には狂いの音には聞こえなかった」
フェーダーは橋桁を見上げた。
「何かが、鐘を内側から噛んだ音だった」
肩の上で、姿を消したギアが翅を震わせた。ベルの耳にだけ届く声で言う。
「この子、使えるわよ」
ベルは小さく首を振った。使える、という言い方は、なんだか嫌だった。 フェーダーがオルガンを構え直した。
「低い音、聞いてみる? 運河の水門の歯車に合わせたやつ。いつも、帰る前に一回だけ鳴らすの」
指が鍵を押しこんだ。 腹の底に響く低音が、橋の下に広がった。水面に、音の形をした細かい波が走っていく。 その波が途中で向きを変えた。
流れに逆らって、何かが水面を押し返してくる。 黒い鰭のようなものが、一枚、水から突き出した。二枚、三枚。数えるより早く増えていく。鰭に見えたものは、どれも、歯車の歯だった。
水面下の群れが、いっせいに水門のほうへ向きを変えた。




