第13話 鏡の左手
「逃げて!」
ベルは女の子の背中を押した。女の子は花籠を抱えて、広場の端まで走っていく。 眼鏡を外した。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
装甲が肩に乗る。翼が開く。 黒い歯車が噴水の石組みを割って、全身を現した。家一軒ほどの大きさ。クロックハイムで見てきたものと、形は同じだった。歯がでたらめな角度で突き出している。 ただ、回る向きが逆だった。
ベルは走った。紋章を、黒い歯に噛ませる。七十度。寝かせる。四十五度。 滑った。 紋章の歯が黒い歯の背の上を、火花を散らして空回りした。
「なんで」
「逆回転だからよ!」
ギアが叫ぶ。
「あなたのステッキは右回りの街で作られてる。左回りの歯車に、同じ向きで噛ませても、歯と歯が逃げあうの!」
黒い歯が振り下ろされた。 横に跳ぶ。石畳が砕け、噴水の水が、泥になって跳ねる。 ベルは転がりながら考えた。
逆回転。歯が逃げあう。 鏡に映したら、と思った。工房の鏡の前で右手で噛ませた四十五度は、鏡の中では、左手が噛ませている。
左手で持てば。 ベルはステッキを右手から左手へ持ちかえた。 その瞬間、背中の翼が止まった。 六枚の歯車が一斉に回転を止め、がちり、がちり、と音を立てて、逆に回りはじめた。蒸気の流れが反転する。髪が逆の向きになびいた。
左手の中で、ステッキの拍が変わった。 ぎこちなかった。火傷の跡が握りの中でひきつれた。利き手ではない指が、握りの黒ずみに、うまく馴染まない。拍が手のひらの中で、少しずつずれて届く。 それでも、回っていた。
「左手で持てば、角度は、そのままでいいんだ」
走った。 黒い歯に紋章を噛ませる。左手で。不慣れな指で。四十五度。 がちん。 噛んだ。 紋章から、光が噴き出した。金色と、見たことのない銀色。
二つの光が螺旋を描いて絡みあいながら、黒い歯車の内側に走っていく。 黒い歯車が金と銀の粒になって、ほどけた。 ツァーンベルクの乾いた空に、二色の粒が昇っていった。
◇
変身を解くと、左手が震えていた。 指先から肘まで、じんと痺れている。利き手でない手で、無理に歯車をねじ伏せた痺れだった。 噴水の縁に座りこむと、花売りの女の子が走ってきた。
「お姉ちゃん、左手で戦ってた」
「……うん。慣れてないから、へたくそだった」
「へたくそじゃないよ。この街の人みたいだった」
女の子は花籠から、白い小さな花を一輪抜いて、ベルの左手に握らせた。痺れた指で、ベルはそれをそっと握った。 花の茎の、細くて柔らかい感触が、ちゃんと指に来た。
「……左手、きつい」
帰りの機関車の中で、ベルはつぶやいた。 膝の上の紙袋は空だった。卵のサンドイッチは、広場の女の子と半分ずつ食べた。
「でも、この手も、私の手なんだね」
ベルは左の手のひらを開いて、閉じた。指先に、まだ花の茎の感触が残っている気がした。
「右手だけじゃなくて。こっちの手も、ちゃんと歯車の声を聞いてた」
ギアは窓枠の上で、ベルの左手を見ていた。 長いあいだ、黙っていた。
「……大事にしなさいよ、その手」
ギアの声はいつもより小さかった。
「あの子も、左手で握ったことがあったわ。一度だけ」
「あの子って、誰」
ギアは答えなかった。窓の外の、暗くなっていく畑のほうを見ていた。 クロックハイムの煙突の列が、夕焼けの向こうに見えてきた。
◇
クロックハイムの駅に降りると、向かいのホームに、逆方向の列車が止まっていた。ツァーンベルク行きだった。 その客車に、紺の外套の男が乗りこむところだった。よく手入れされた口ひげ。第七街区の蒸気の中で、ベルの手を見ていた人。
男は硝子の小瓶を、大事そうに両手で持っていた。 小瓶の中で、黒い欠片が、左に回っていた。




