第12話 知らない街の歯車
隣町ツァーンベルクまでは、蒸気機関車で四十分だった。
ベルがクロックハイムの外に出るのは、生まれて初めてだった。 窓の外を、煙突の列が遠ざかっていく。代わりに畑が見えた。風車が見えた。風車の羽根も歯車で回っていた。 窓枠の上で、ギアが、流れていく線路の分かれ道をじっと見ていた。
「……昔は、この線、ここまでしかなかったのに」
「昔って、いつ」
「なんでもないわ」
ギアはそれきり窓に背を向けた。
「ねえ、ギア」
「なに」
「切符、これで合ってる?」
「三回目よ、それ聞くの」
膝の上の紙袋には、母が持たせてくれた卵のサンドイッチが入っている。友達と隣町に遊びに行く、と言ったら、母はしばらくベルの顔を見て、それから黙って二人ぶん作った。ギアのぶんまで、とはさすがに言えなかった。 左の手のひらの火傷は、ようやく包帯が取れたところだった。まだ、薄い皮が突っぱっている。 ガラクタ市の黒い歯車は、ベルが工具箱の金槌で叩き割った。手のひらほどの大きさだったから、それで済んだ。砕けた欠片は最後まで左に回ろうとしていた。店の男は腰を抜かしていた。
「こんなのが、ごろごろ出てる街」
ベルは窓の外を見た。 ツァーンベルクの炭坑から、クロックハイムへ石炭を運ぶ汽車は、この線を走っている。向こうの歯車が止まれば、石炭が止まる。父の工場の炉も、学校の工房の炉も、ルストの鍛冶小屋の炉も。 それに、歯車が悲鳴を上げているのを知っていて、知らないふりをするのは、どうしてもできなかった。人に道を聞くより、そっちのほうが、ずっと怖かった。
「放っておけないよ」
「あなたの街じゃないのに」
「歯車の街なのは、同じでしょう」
ギアは少しのあいだ黙って、それから鼻を鳴らした。
「……あの子も、そういうことを言う子だったわ」
「あの子?」
「なんでもない。ほら、検札が来るわよ」
途中の駅で、車掌が検札に回ってきた。 紺の制服の、口ひげの大きな男だった。ベルは切符を握りしめたまま、息を止めた。差し出せばいいだけなのに、手が動かない。何か聞かれたらどうしよう。どこへ行くのか、何をしに行くのか。
「切符を」
「は、はい」
声が裏返った。車掌は切符に鋏を入れて、ベルに返し、膝の上の紙袋に目をとめた。
「卵のサンドイッチか。うまそうだな」
「……はい」
「いい旅を」
車掌が通りすぎていくと、ベルは座席の背に、ぐったりともたれた。
「今の、会話って言えるのかしら」
「……言えない」
ギアは紙袋の隙間から、サンドイッチのパンの耳を一切れ、こっそり引き抜いていた。 ツァーンベルクの駅に降りた。 空気が違った。クロックハイムの蒸気の、湿った重さがない。乾いていて、木の匂いがした。建物が低く、石造りより木造が多い。屋根の上に、煙突の代わりに風見の歯車が並んでいた。 足もとの石畳から、拍が来た。 こつん、こつん。 ベルは、眉を寄せた。 何か、違う。
「……逆だ」
しゃがんで、石畳の継ぎ目に手を当てた。拍の、流れていく向きが違う。
「この街の歯車、左に回ってる」
「街ごとに、大時計の設計が違うの。ツァーンベルクは、左回りが基準」
ベルは立ち上がって、あたりを見回した。道がわからなかった。駅前には地図の看板もない。 人に聞かなければならない。 ベルは通りかかった女の人の前に出て、口を開けて、閉じた。女の人は首をかしげて通りすぎていった。 もう一度。今度は荷車を押す男の人。
「あ、あの、す」
荷車は行ってしまった。
「ベル」
「わかってる」
「大時計がどこにあるか聞くだけよ」
「わかってる、けど」
三人目は花売りの小さな女の子だった。ベルの腰くらいまでしか背がない。女の子のほうから、ベルを見上げてきた。
「お姉ちゃん、迷子?」
「……はい」
女の子は、笑って、ベルの手を引いた。 広場までの道を、女の子は花を売りながら案内してくれた。この街の子はみんな左手で物を持つのだという。扉の取っ手も、水道の蛇口も、左回りだから。 広場に出たとき、女の子の手が、ベルの手をぎゅっと握った。 広場の真ん中の噴水が、止まっていた。 噴水の縁の石組みが、内側から割れている。その割れ目から、黒い歯が一本、ゆっくりと突き出してきた。 左回りに、回りながら。




