第74話 甘い嘘
『取引ヲ、シヨウ』
その声は門の奥から染み出してきた。
父さんがすばやく立ち上がる。
ツキが低くうなり、五匹がいっせいに身構えた。
「耳を貸すな、ソウマ」
『オマエノ、父ノ、侵食ヲ、消シテヤル』
父さんの肩がぴくりと止まった。
『全員、元ノ世界ヘ、帰シテヤル。星ヲ、一ツ、差シ出セバ』
星。
タマのことだ。
「断る」
『マダ、見テイナイ』
門の石がぐにゃりと溶けた。
気づくと、俺は畳の上に座っていた。
天野竜具店の、奥の居間。
ちゃぶ台の上で、味噌汁が湯気を立てている。
焼き魚のにおい。
縁側から、夕方の光が差しこんでいた。
「ほら、ソウマ。冷めるぞ」
じいちゃんが笑っている。
腰も曲がっていない。
店がまだ繁盛していたころの、あの顔だ。
「お兄ちゃん、また箸の持ち方ヘン」
ひなたがあきれたように言う。
でもその声に、とげはない。
俺を見下していたころの冷たさがどこにもなかった。
そして、ちゃぶ台の向こうに父さんがいた。
こけた頬じゃない。
伸び放題の髪でもない。
腕の黒い揺らぎも、きれいに消えている。
写真の中の、あの笑顔そのままだ。
「おかえり、ソウマ。よくがんばったな」
喉の奥が熱くなった。
これだ。
ずっと欲しかったのは。
ハズレだと笑われた日も。
ハズレ組で独りだった日も。
心のどこかで、ずっとこの食卓を思い描いていた。
『コレガ、オマエノ、望ミダロウ』
声がやさしくささやく。
『星ヲ、渡セ。ソレダケデ、全部、手ニ入ル』
箸を持つ手が震えた。
父さんの侵食はもう長くはもたない。
ここで首を縦に振れば、父さんは助かる。
じいちゃんも、ひなたも、笑っていられる。
……本当に、それでいいのか。
俺は息を吸った。
癖みたいに、目の前の父さんを視る。
天野■■
職業:テ■■■
相棒:(読めない)
状態:■■■■■
文字化けだ。
名前も、相棒も読めない。
じいちゃんを視る。
ひなたを視る。
どれも同じだった。
ステータスの欄が黒くつぶれて崩れている。
本物の人間なら、こうはならない。
これは別のものが書き換えて作った、ただの絵だ。
でも。
それだけじゃなかった。
視る力なんかなくても、最初から気づけたはずだった。
ちゃぶ台のまわりを見まわす。
じいちゃん。
ひなた。
父さん。
俺。
縁側にも、座布団の上にも。
いつもの俺の膝の上にも。
灰色の、まん丸い目がない。
ごはんのたびに、俺の皿から焼き魚をかっさらっていくやつ。
怒ると「グルルゥ」とうなって、すぐに「キュー」と甘えてくるやつ。
この食卓にはタマがいなかった。
ヒノも、ゴロも、ソラも、ナギも、メイもいない。
あいつらの誰かが欠けていたら、それはもう、うちじゃない。
「……いらない」
箸を置いた。
『ナゼダ。欲シカッタ、モノダロウ』
「欲しかったよ。今でも欲しい」
俺はにせものの父さんをまっすぐ見た。
「でも、タマがいない家族なんて、家族じゃない」
にせものの父さんが笑ったまま固まった。
じいちゃんの輪郭がざらりと崩れる。
ひなたの声がノイズに変わった。
「タマはな、鍵でも、星でもない。うちの最初の家族だ。取引の材料になんか、するもんか」
ぴしり。
食卓の真ん中に、ひびが走る。
「キュア!」
ヒノの声だ。
ひびの向こうから、真っ赤な炎がのぞいた。
「ピィイィッ!」
続けて、青白い雷光。
幻の天井を、ソラの翼が切り裂く。
「ふよぉっ!」
メイの蔦が崩れかけた壁をつかんで引きはがした。
――ガシャアアン!
幻がガラスみたいに砕け散る。
気づけば、俺は門の前に膝をついていた。
焚き火はとっくに消えている。
ヒノが俺の袖をくわえて、必死に引っぱっていた。
ナギの雨がほてった額を冷やしてくれる。
「ソウマ!」
父さんが俺の肩をつかんだ。
本物の父さんだ。
頬はこけて、腕は黒く揺らいでいる。
ボロボロで、疲れきっていて。
それでも、ちゃんとここにいる。
「見たのか」
「うん。……うまい嘘だった」
父さんは何かを言いかけて、口を閉じた。
それから、震える手で俺の頭をくしゃりと撫でた。
「僕は五年、あの声を聞き続けた。……何度、うなずきかけたかわからない」
「俺には、タマがいるから」
視る力で、自分のステータスをちらりと確かめる。
天野ソウマ
相棒:タマ(現世)
共鳴:安定
遠い扉の向こうで、タマがちゃんとつながっていた。
ずずん、と地面が鳴る。
門の表面に、長い亀裂が縦に走った。
取引を断られて、封を守る理由がなくなったのか。
巨大な門がゆっくりと左右に開いていく。
その奥は真っ暗な空間だった。
上も下もわからない、底なしの闇。
ゴロが前に出て、俺たちの盾になる。
ツキが低く「ルゥゥ」と鳴いた。
どこか、悲しげな声だった。
闇の真ん中に、巨大な何かがうずくまっている。
黒い体の奥で、かすかに。
灰色の鱗が光った。
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【あとがき】
第七十四話、読んでくれてありがとうございます。
別のものが差し出した「取引」。侵食の消えた父、元気なじいちゃん、やさしいひなた。ソウマがずっと欲しかった食卓です。書いていて、正直こちらも揺らぎました。
でも、視る力で視れば文字化け。そして何より、その食卓にはタマがいない。ソウマの答えは「タマがいない家族なんて、家族じゃない」でした。幻を内側から壊しに来たヒノたちも、ちゃんと家族の一員です。
門の奥、黒い体の奥に光った灰色の鱗。タマやツキと同じ色です。あれは、いったい何なのか。次回、ついに正体が明かされます。




