第37話 外さない、と決めた
底なしの縦穴の、縁。
壁一面の模様が、淡く光っている。
光り始めた「???」に呼ばれるみたいに――俺の手は、動いていた。
指先が留め具にかかっている。
さっきの「カチ」という音が、まだ耳に残っていた。
あと少し力を入れれば、首輪は外れる。
タマは完全に目を覚まし、この境目を開く。
そして俺は、父さんに会える。
穴の縁で、タマがこっちを見ている。
急かさない。ただ静かに、待っている。
その目は「行こう」と言っていた。
父さん。
写真でしか知らない、あの人。
どんな竜にも活かし方があると信じて、たった一人で世界の境目を閉じに行った、俺の父さん。
……会いたい。
声を聞いてみたい。なんで俺を置いていったのか、聞いてみたい。
ずっと思ってた。どうせ育成の天才なら、俺のことも育ててくれよって。
……その答えが、この穴の向こうにある。
じいちゃんの寂しそうな背中を思い出す。
母さんの顔も知らない。父さんの声も知らない。
……ずっと、心に穴があいていた。俺の真ん中に。
その穴が今、埋まるかもしれない。この首輪ひとつで。
指に、力がこもる。
カチ、と留め具がもう一段ゆるんだ。
その瞬間だった。
タマの首輪の内側から、また、あの声が漏れた気がした。
《たすけて》。
ステータスの「???」が、そう震えて見えた。
……ああ、そうだ。
俺は、思い出した。
この子はずっと、"こらえてる"んだ。何かを。俺のために。
俺が勝つたびに、笑うたびに、その裏で。
たった一匹で"何か"を抑え込んでいた。
誰にも言わずに。俺にすら、言わずに。
――こんな子を。父さんに会いたいなんて理由で、"化け物"に変えられるか。
……できない。絶対に、できない。
なら、俺がやることは一つだ。
こいつの首輪を外して、"それ"を解き放つことじゃない。
俺は留め具から手を離した。
カチン、と首輪が元通りに留まる。
その確かな手応えに、俺はようやく息を吐いた。
「……外さないよ」
俺は言った。円城寺に。そして、タマに。
「父さんに会いたい。……めちゃくちゃ、会いたい。でも、タマを犠牲にしてまでは、嫌だ」
円城寺が静かに俺を見ている。
「それが唯一の方法だと、言ったはずよ」
「知ってる。……あんたの言う"唯一"、だろ」
俺は、穴の縁のタマに歩み寄った。
「俺はずっと、そうやって生きてきた。ハズレは無理だ、E組は無理だ、格上には勝てない。……"無理"だと言われるたびに、育てて、工夫して、ひっくり返してきた」
円城寺は、何も言わない。
「一匹の弱点は、みんなで補える。届かない強さは、育てて数で、工夫で埋める。……それが俺のやり方だ。"唯一の道"なんて、信じない」
「甘いわね」
円城寺が静かに言う。
「その甘さで、あなたのお父さんは消えた」
「……かもしれない」
俺は認めた。
「でも、その甘さで。俺はここまで来た。……ハズレの卵、たった一つから」
腕の中のタマを、そっと撫でる。
こいつと、ヒノと、ゴロと、ソラと、ナギと。
誰か一匹でも欠けていたら、俺はとっくに潰れていた。
……"唯一"なんかじゃない。俺には、ずっと、みんながいた。
タマを抱き上げる。
あったかい。少し震えてる。……いつものタマだ。
「だから、これもひっくり返す。タマも父さんも、両方諦めない。……そのための道を、俺が見つける」
タマが、俺の顔を見上げた。
灯りかけていた「???」が、すう、と静かになる。
縁に近づいていた体から、力が抜けて。
縁から、一歩、二歩。
俺のほうへ戻ってくる。
さっきまで途方もなく遠く見えた背中が、ちゃんと俺の腕に収まった。
……俺の腕の中で、ぽふ、と丸くなった。
「キュルルゥ……」
甘えるみたいな、いつもの声。
……よかった。還ってきた。
ちゃんと、俺のタマだ。
その体を、ぎゅっと抱きしめる。
……ごめんな。気づくのが遅くて。
お前がこんなに苦しんでたこと、俺はちゃんと見てやれてなかった。
これからは違う。
お前が背負ってるもの、俺も一緒に背負う。だからもう、独りで抱え込むなよ。
タマが、俺の指を、ちいさな前足できゅっと握った。
……わかった、と言うみたいに。
穴の底の地鳴りも、いつのまにか収まっていた。
"向こう"は、また眠りについたらしい。
円城寺は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐く。
……その顔が少しだけ泣きそうに見えたのは、気のせいだろうか。
「……あの人と、同じことを言うのね」
え。
「あなたのお父さんも、同じだった。"どちらも諦めない"って。……そう言って、結局、独りで渡ってしまった」
円城寺の声は静かだった。
「だから忠告しておく。"両方"を取ろうとする者ほど……いちばん大きなものを、失うのよ」
それは、脅しには聞こえなかった。
……後悔している人の言葉に、聞こえた。
「あんたも」
俺は聞いた。
「あんたも、誰かを。……あの穴の向こうに、置いてきたのか」
円城寺は答えなかった。
ただ、穴の底をほんの一瞬だけ見つめて。
……その横顔が、初めて"ただの人間"に見えた。
権力者でも化け物でもなく、ただ、大切な誰かを失った人の顔だった。
俺はその言葉をまっすぐ受け止めて、それでも首を横に振った。
「それでも、俺は。両方、諦めない」
言い切って、俺は、タマを抱く腕に力を込めた。
境目に背を向けて、歩き出す。
この扉には、いつか、また来る。
でもそのときは、タマを犠牲にしない"別の道"を握りしめて。
円城寺は、止めなかった。
ただ、去り際に、こう言った。
「待っているわ。……あなたが"あの人を超える"日を」
その声には、期待とも諦めともつかない響きがあった。
……この人は、本当はどっち側なんだ。
俺を上へ引き上げたいのか。それとも、"あの人"みたいに失いたくないのか。
最後まで、読めなかった。
その言葉の意味を、俺はまだ知らない。
でも、一つだけ決めた。
強くなる。もっと。
タマの覚醒に頼らなくても、この境目を越えられるくらいに。
鷹宮を、覚醒なしで超える。
円城寺の"唯一"を、俺の"別の道"で覆す。
……何年かかっても、いい。
じいちゃんに、榊先生に、仲間たちに。もう一度、力を借りて。
俺はこの五匹と、もっと上へ行く。
そして父さんを、連れて帰る。
タマも、仲間も、誰一人、欠けさせずに。
最後にもう一度、あの縦穴を振り返る。
待ってろよ、父さん。
次にここへ来るときは、ぜんぶ抱えたまま、あんたを迎えに行く。
腕の中で、タマが「キュ」と鳴いた。
……ああ。行こう、タマ。
あの高い場所を後にして、俺は自分の足で、階段を降りていく。
一段ずつ。
……ここから、また始まるんだ。
俺と五匹の、新しい戦いが。
――ハズレ竜タマと、俺の。
俺たちの物語は、まだ始まったばかりだ。
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【あとがき】
第三十七話、読んでくれてありがとうございます。
ソウマの選択は、「首輪を外さない」でした。
父に会いたい。その気持ちは本物です。でも、タマを犠牲にする"唯一の道"を、ソウマは選びませんでした。かわりに選んだのは、「両方諦めない、別の道を自分で見つける」という、いちばん難しい道です。
そして円城寺の反応。彼女は初めて、"後悔している人"の顔を見せました。「両方を取ろうとする者ほど、大きなものを失う」――この言葉が、彼女自身の過去なのか、父のことなのか。まだ、伏せたままです。
よかったら感想で教えてください。ソウマのこの選択、あなたは賛成ですか。それとも、危ういと思いますか。
物語は、ここから新しい章へ。ソウマの「別の道」を探す戦いが始まります。




