手のかからない子
俺は昔から——ずっと、一人だった。
物心ついた頃の記憶は、今でも少しだけ残っている。
自分で言うのもなんだけど、俺はあの頃から、よくできた子だったと思う。
言われたことはちゃんとやるし、
泣き言はあまり言わなかった。
親を困らせるようなこともしなかった。
「凛馬、お皿並べてくれる?」
母さんにそう言われれば、俺は笑って返事をした。
食卓へ皿を並べて、
炊飯器からご飯をよそって、
箸を人数分並べる。
そんな小さなお手伝いが、俺は少し好きだった。
「“ありがとう”」
その一言が聞けるだけで、なんだか嬉しかったから。
最初は、本当にそれだけだった。
家族の役に立てることが、嬉しかった。
だから俺は、自分から色んなことを手伝うようになった。
洗濯物を畳んで、
掃除機をかけて、
ゴミをまとめて、
できることが増えるたびに、少しだけ誇らしかった。
家族のためなら、それくらい当たり前だと思っていた。
それが少しずつ、「俺の役目」へ変わっていくなんて——
思ってもいなかった。
◇◇◇
そんな日々が続いた、ある日だった。
「凛馬、お兄ちゃんになるのよ」
母さんは嬉しそうに笑っていた。
「……ほんと?」
思わず目を輝かせる。
“お兄ちゃん”。
その言葉が、なんだかくすぐったかった。
「お兄ちゃん……」
小さくその言葉を繰り返す。
“家族が増える”。
その事実だけで、胸が弾んだ。
弟かな? それとも妹かな?
一緒に遊べるかな?
泣いたら、俺があやそう。
転んだら、守ってあげよう。
たくさん笑って、たくさん話して——
きっと、もっと賑やかな家族になる。
そんな未来を、あの頃の俺は本気で信じていた。
そして数か月後——
弟の湊が生まれた。
湊は小さくて、泣き虫で、
すぐに眠ってしまう子だった。
「かわいいね——」
そう言うと、母さんは優しく笑った。
「凛馬は、もうお兄ちゃんだからね」
「うん!」
俺は迷わず頷いた。
その日から俺は、少しだけお兄ちゃんになろうと頑張った。
泣いたらおもちゃを持っていく。
母さんが忙しそうなら、洗濯物を畳む。
父さんが帰ってくる前に、食卓を準備する。
湊が眠っている間に、できることは全部やった。
母さんが少しでも楽になればいい。
そんなことばかり考えていた。
それが、お兄ちゃんなんだと思っていたから。
湊が生まれてから、家の中は一気に賑やかになった。
泣き声が聞こえれば、母さんはすぐに駆け寄って——
父さんも仕事から帰ると、一番に弟を抱き上げて笑っていた。
その光景を見ていると、俺まで嬉しくなった。
「かわいいなぁ」
自然とそんな言葉が口をついて出る。
だけど——少しずつ、気付くようになった。
母さんも父さんも、弟につきっきりになっていることが。
話しかけても、“ちょっと待ってね”と返されることが増えた。
一緒に遊ぼうと言おうとしても、気付けば言葉を飲み込んでいた。
「……」
まだ赤ちゃんなんだ。
手が掛かるのは当たり前だろう。
母さん達だって忙しい。
俺はお兄ちゃんなんだから、我慢しないと。
そうやって、自分で自分を納得させていた。
それでいいと思っていた。
◇◇◇
気付けば、俺は小学生になっていた。
湊も大きくなり、家の中は以前よりずっと賑やかになっていた。
「凛馬、悪いけど洗濯物畳んどいて!」
そして俺は山積みになった洗濯物を、一枚ずつ丁寧に畳んでいく。
終われば掃除機をかけ、ゴミをまとめる。
気付けば、それが毎日のようになっていた。
「凛馬、お皿お願い!」
「凛馬、お風呂洗っといて!」
「凛馬、ちょっと湊見てて!」
でも——不思議と嫌ではなかった。
母さんも父さんも忙しい。
俺がお兄ちゃんなんだから。
それくらい当たり前だと思っていた。
だから、一度も文句なんて言わなかった。
言おうと思ったことすら、なかった。
その日も、夕飯を食べ終えた俺は一人で食器を流し台へ運ぶ。
蛇口を捻り、水を流す。
カチャカチャと皿を洗う音だけが、静かな台所に響いていた。
すると後ろから、小さな足音が聞こえてくる。
湊だった。
まだ幼い弟は、小さな皿を両手で大事そうに持っている。
危なっかしい足取りで流し台まで歩いてくると、皿をそっと置いた。
すると——
母さんが笑顔になった。
「すごいじゃない!」
父さんも嬉しそうに笑う。
「ちゃんとお手伝いできたな!」
弟は照れくさそうに笑っていた。
「えらいえらい!」
母さんは頭を優しく撫でる。
その光景を見て、俺も自然と笑った。
「よかったね——」
弟は嬉しそうに何度も頷いている。
その姿は、本当に可愛かった。
だから最初は、何も思わなかった。
ただ——
皿を洗いながら、ふと思った。
……皿を並べたのも俺。
食べ終わった皿を運んだのも俺。
今こうして洗っているのも俺だ。
でも——
“ありがとう”
その言葉は、俺には掛けられなかった。
「…………」
蛇口から流れる水だけを見つめる。
別に弟が褒められることが嫌だったわけじゃない。
むしろ、嬉しかった。
でも、心のどこかで小さな声が聞こえた。
――“俺も、今日頑張ったんだけどな”。
その声は、水の音にかき消されるくらい小さかった。
俺は首を横に振る。
「……気のせいだよね」
湊はまだ小さい。
褒めてあげた方がいいに決まってる。
母さん達だって悪くない。
俺は、お兄ちゃんなんだから。
そう言い聞かせると、不思議と胸のモヤモヤは少しだけ小さくなった。
……いや。本当は、小さくしただけだった。
その日からだった——
何かあるたびに、自分へ「仕方ない」と言い聞かせるようになったのは。
◇◇◇
気付けば、俺は中学生になっていた。
湊ももう小学生だ。
家事をすることも、弟の面倒を見ることも、もうすっかり日常になっていた。
その頃は、勉強もそれなりに頑張っていた。
少しでも親を安心させたくて。
少しでも褒めてもらいたくて。
そんな気持ちが、どこかにあったのかもしれない。
ある日のことだった——
「母さん、テスト返ってきた」
鞄から答案用紙を取り出す。
「へぇ」
その紙には、98点と書かれている。
あと二点で満点だった。
母さんは答案を一度見て、小さく頷く。
「よかったじゃない」
たった、それだけだった。
「……うん」
俺は答案を静かに鞄へしまった。
きっと忙しいんだ。
それくらいでいい。
“よかった”って言ってくれただけいいじゃないか。
そう、自分に言い聞かせた。
そして——
次の定期テスト今度は少しだけ点数を落としてしまった。
その答案を見た母さんは、小さくため息をつく。
「凛馬——最近ちゃんと勉強してるの?」
「……してるよ?」
「じゃあ何でこんな点数なの?」
その言葉に、何も返せなかった。
「次はもっと頑張りなさい」
「……うん」
俺は黙って答案を受け取った。
その数日後だった——
「見て見て!」
小学校から帰ってきた湊が、嬉しそうにテストを見せる。
その点数は、決して高くはなかった。
「湊、頑張ったじゃない!」
母さんは笑顔で頭を撫でた。
「前より点数上がってるじゃない!」
「えへへ!」
湊も嬉しそうに笑う。
その様子を見ながら、俺も笑った。
「よかったな……湊」
心からそう思った。
でも——胸の奥で小さな違和感が生まれる。
俺が98点取ったって反応は薄かった——
少し点を落とせば、怒られた。
でも湊はどれだけ低くても——
“頑張ったね”。
そんな温かい言葉がかけられた。
もちろん、学年も難しさだって違う。
そんなことくらい分かっていた。
だから誰も悪くない。
誰も間違っていない。
それでも——
気付けば俺は、いつものように自分へ言い聞かせていた。
「……なんでもない」
その言葉だけが、少しずつ口癖になっていった。
◇◇◇
高校へ入ってからだった。
湊も中学生になり、もう手の掛かる年齢ではなくなっていた。
それでも——
俺の毎日は、何一つ変わらなかった。
朝は誰よりも早く起きる。
朝食を並べて、洗濯物を干して、ゴミをまとめる。
学校へ行って。
帰ってきたら夕飯の準備を手伝って、皿を洗う。
それが終われば、自分の部屋で宿題をする。
そんな毎日だった。
毎日同じことを繰り返す。
誰かの役に立てているはずなのに——
“ありがとう”。
いつからだろうか。
その一言を、家で聞かなくなったのは。
俺がやることは、いつの間にか“手伝い”じゃなくなっていた。
やって当たり前——
それが、俺の日常になっていた。
でも、一つだけやってみたいことができた。
ボクシング。
テレビで試合を見たのがきっかけだった。
殴り合いがしたいわけじゃない。
ただ、一つのことへ本気で打ち込む人達が、すごく眩しく見えた。
俺も何か夢中になれるものが欲しかった。
何日も悩んで、
何度も言葉を頭の中で繰り返して。
夕食の後、ようやく口を開いた。
「……母さん。俺、ボクシングやってみたいんだ」
少しだけ緊張していた。
人生で初めて、自分から”やりたい”と言った気がしたから。
母さんは一瞬だけ手を止める。
「ボクシング?」
「うん、習いたいんだ」
でもそして返ってきたのは、あっさりした言葉だった。
「やりたいなら、自分のお金でやりなさい」
「……え?」
思わず聞き返す。
「自分で稼いで、自分で払うなら好きにしたらいいわ」
その言葉を聞いて、何も言えなくなった。
「……分かった」
そう返すしかなかった。
別に間違ったことを言われたとは思わない。
高校生なんだから、自分で払えと言われるのも当然なのかもしれない。
だから、自分を納得させた。
でも、その数か月後だった。
「父さん! 俺、サッカー部入りたい!」
リビングで嬉しそうに話す湊の声が聞こえた。
「おっ、いいじゃないか!」
父さんは笑顔になる。
「スパイク見に行くか?」
「ユニフォームも必要ね!」
母さんもすぐに予定を立て始める。
その週末には、新しいスパイク。
練習着とバッグ。
必要な物は、何一つ欠けることなく揃っていた。
俺は、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
「…………」
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ思ってしまった。
――そのお金があるなら、少しくらい俺にも。
胸の奥で生まれたその考えを、俺はすぐに押し込める。
「……違う」
湊は悪くない。
母さん達だって悪くない。
きっと、タイミングの問題だ。
うん。そうだ。
そういうことにしておこう。
いつものように、自分へそう言い聞かせながら。
俺は静かに、自分の部屋へ戻った。
◇◇◇
気付けば、俺は大学生になっていた。
大学へは、特待生として入学した。
授業料が免除されるから、頑張った。
親が費用を出してくれるとは、思わなかったから。
教科書代や定期代、細かな出費はアルバイト代でどうにかしていた。
だから——
少なくとも大学に関しては、親へ大きな負担を掛けているつもりはなかった。
そして朝は誰よりも早く起き、
朝食を用意して、
洗濯物を干して。
大学へ行く。
帰ってきたら家事を手伝い、自分の部屋へ戻る。
そんないつも通りの毎日だった。
ただ、一つだけ——
ボクシングだけは続けていた。
学校帰りにアルバイトをして、
貯めたお金でジムへ通う。
なんだか、これだけが俺を俺として見てくれてるような気がした。
それだけが、俺の支えだった。
「……住まわせてもらってるんだ」
家事くらい、やって当然だろ。
大学へ行かせてもらっているだけでも十分ありがたい。
そう思っていた。
だから、不満なんて口にしたことは一度もない。
その日も、アルバイトを終えて家へ帰った。
「ただいま」
返事はないのはいつものことだった。
俺は静かに靴を脱ぎ、そのまま自分の部屋へ向かおうとする。
その時だった——
リビングから、母さんと父さんの声が聞こえてきた。
「凛馬、最近もボクシング行ってるの?」
「あぁ」
父さんが小さく息を吐く。
「本気であれで食べていこうとしてるのか?」
「……無理でしょ」
母さんが苦笑混じりに答える。
凛馬は目を見開く。
「プロなんて一握りなんだから……
夢を見るのもいいけどねぇ」
二人は他愛もない世間話をするように話していた。
悪意なんて、多分なかったんだろう。
そう考えないと、心が今にも壊れそうだ。
でもその言葉は、胸の奥へ深く突き刺さった。
「それに——」
父さんが続ける。
「早く家を出ていってもらわないとな」
「そうね——」
母さんも軽く笑う。
「いつまでも家にいられても困るし」
「…………」
俺は、その場から動けなかった。
二人は、俺が帰ってきていることに気付いていなかった。
だから——
あれが本音だった。
そして父さんが、小さく笑いながら口を開く。
「それに比べて、湊は——」
「……っ」
その瞬間だった。
心臓が、嫌な音を立てた。
“聞いちゃいけない”。
何故か、本能がそう叫んでいた。
ここから先を聞けば、きっと何かが壊れる。
俺は静かに踵を返す。
足音を殺して、自分の部屋へ戻ろうとした。
でも——
「湊は将来が楽しみだよな」
「ほんとねぇ。
ちゃんと目標もあるし、友達も多いし」
「……」
足が止まる。
止めたくなんてなかった。
でも、止まってしまった。
耳を塞ぎたかった。
聞こえなくなればよかった。
だけど——
次に聞こえてきたその一言だけは、どうしても耳から離れてくれなかった。
「“凛馬も、湊みたいだったらよかったのにね”」
「……っ」
そして俺は急いで扉を閉め、鍵を掛ける。
ベッドへ腰を下ろした瞬間だった。
「…………」
何も考えられない。
頭の中が真っ白だった。
住まわせてもらっているし、何よりここまで育ててもらった。
大学にも行かせてもらっている。
感謝すべきだ。
迷惑を掛けちゃいけない。
ずっと、そう思ってきた。
なのに——
「……なんで」
声が震えた。
「俺じゃ……ダメかよ……」
気付けば、肩が震えていた。
今まで何度も仕方ないと飲み込んできた。
「お兄ちゃんだから」
「忙しいから」
「俺が悪いから」
そうやって、自分を納得させ続けてきた。
でも……もう限界だった。
「……っ!」
視界が滲む。
頬を伝う雫が、布団へ落ちた。
あれ……俺泣いてる。
最後に泣いたのは、いつだっただろう。
なんだか思い出せない。
「っ……ぅ……」
声を殺そうとしても、嗚咽が漏れる。
そして俺は誰にも聞こえないように。
誰にも迷惑を掛けないように。
俺は顔を枕へ押しつけ、一人きりで泣き続けた。
この日からだった——
「“俺って、なんなんだろう”」
そう考えるようになったのは。
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