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獣界の異邦人  作者: 凛k
18/19

手のかからない子

俺は昔から——ずっと、一人だった。

 物心ついた頃の記憶は、今でも少しだけ残っている。


 自分で言うのもなんだけど、俺はあの頃から、よくできた子だったと思う。


 言われたことはちゃんとやるし、

 泣き言はあまり言わなかった。


 親を困らせるようなこともしなかった。


 「凛馬、お皿並べてくれる?」


 母さんにそう言われれば、俺は笑って返事をした。


 食卓へ皿を並べて、

 炊飯器からご飯をよそって、

 箸を人数分並べる。


 そんな小さなお手伝いが、俺は少し好きだった。


 「“ありがとう”」


 その一言が聞けるだけで、なんだか嬉しかったから。


 最初は、本当にそれだけだった。

 家族の役に立てることが、嬉しかった。


 だから俺は、自分から色んなことを手伝うようになった。


 洗濯物を畳んで、

 掃除機をかけて、

 ゴミをまとめて、


 できることが増えるたびに、少しだけ誇らしかった。

 家族のためなら、それくらい当たり前だと思っていた。


 それが少しずつ、「俺の役目」へ変わっていくなんて——


 思ってもいなかった。


         ◇◇◇


 そんな日々が続いた、ある日だった。


 「凛馬、お兄ちゃんになるのよ」


 母さんは嬉しそうに笑っていた。


 「……ほんと?」


 思わず目を輝かせる。


 “お兄ちゃん”。


 その言葉が、なんだかくすぐったかった。


 「お兄ちゃん……」


 小さくその言葉を繰り返す。

 

 “家族が増える”。

 その事実だけで、胸が弾んだ。


 弟かな? それとも妹かな?


 一緒に遊べるかな?


 泣いたら、俺があやそう。

 転んだら、守ってあげよう。


 たくさん笑って、たくさん話して——

 きっと、もっと賑やかな家族になる。


 そんな未来を、あの頃の俺は本気で信じていた。


 そして数か月後——


 弟の湊が生まれた。


 湊は小さくて、泣き虫で、

 すぐに眠ってしまう子だった。


 「かわいいね——」


 そう言うと、母さんは優しく笑った。


 「凛馬は、もうお兄ちゃんだからね」


 「うん!」


 俺は迷わず頷いた。

 その日から俺は、少しだけお兄ちゃんになろうと頑張った。


 泣いたらおもちゃを持っていく。

 母さんが忙しそうなら、洗濯物を畳む。

 父さんが帰ってくる前に、食卓を準備する。


 湊が眠っている間に、できることは全部やった。


 母さんが少しでも楽になればいい。

 そんなことばかり考えていた。


 それが、お兄ちゃんなんだと思っていたから。



 湊が生まれてから、家の中は一気に賑やかになった。


 泣き声が聞こえれば、母さんはすぐに駆け寄って——

 父さんも仕事から帰ると、一番に弟を抱き上げて笑っていた。


 その光景を見ていると、俺まで嬉しくなった。


 「かわいいなぁ」


 自然とそんな言葉が口をついて出る。


 だけど——少しずつ、気付くようになった。


 母さんも父さんも、弟につきっきりになっていることが。


 話しかけても、“ちょっと待ってね”と返されることが増えた。


 一緒に遊ぼうと言おうとしても、気付けば言葉を飲み込んでいた。


 「……」


 まだ赤ちゃんなんだ。

 手が掛かるのは当たり前だろう。


 母さん達だって忙しい。

 俺はお兄ちゃんなんだから、我慢しないと。


 そうやって、自分で自分を納得させていた。

 それでいいと思っていた。


         ◇◇◇


 気付けば、俺は小学生になっていた。


 湊も大きくなり、家の中は以前よりずっと賑やかになっていた。


 「凛馬、悪いけど洗濯物畳んどいて!」


 そして俺は山積みになった洗濯物を、一枚ずつ丁寧に畳んでいく。


 終われば掃除機をかけ、ゴミをまとめる。

 気付けば、それが毎日のようになっていた。


 「凛馬、お皿お願い!」


 「凛馬、お風呂洗っといて!」


 「凛馬、ちょっと湊見てて!」


 でも——不思議と嫌ではなかった。


 母さんも父さんも忙しい。


 俺がお兄ちゃんなんだから。

 それくらい当たり前だと思っていた。


 だから、一度も文句なんて言わなかった。

 言おうと思ったことすら、なかった。


 その日も、夕飯を食べ終えた俺は一人で食器を流し台へ運ぶ。


 蛇口を捻り、水を流す。

 カチャカチャと皿を洗う音だけが、静かな台所に響いていた。


 すると後ろから、小さな足音が聞こえてくる。


 湊だった。

 まだ幼い弟は、小さな皿を両手で大事そうに持っている。


 危なっかしい足取りで流し台まで歩いてくると、皿をそっと置いた。


 すると——


 母さんが笑顔になった。


 「すごいじゃない!」


 父さんも嬉しそうに笑う。


 「ちゃんとお手伝いできたな!」


 弟は照れくさそうに笑っていた。


 「えらいえらい!」


 母さんは頭を優しく撫でる。

 その光景を見て、俺も自然と笑った。


 「よかったね——」


 弟は嬉しそうに何度も頷いている。

 その姿は、本当に可愛かった。


 だから最初は、何も思わなかった。


 ただ——


 皿を洗いながら、ふと思った。


 ……皿を並べたのも俺。

 食べ終わった皿を運んだのも俺。

 今こうして洗っているのも俺だ。


 でも——


 “ありがとう”


 その言葉は、俺には掛けられなかった。


 「…………」


 蛇口から流れる水だけを見つめる。


 別に弟が褒められることが嫌だったわけじゃない。

 むしろ、嬉しかった。


 でも、心のどこかで小さな声が聞こえた。


 ――“俺も、今日頑張ったんだけどな”。


 その声は、水の音にかき消されるくらい小さかった。


 俺は首を横に振る。


 「……気のせいだよね」


 湊はまだ小さい。

 褒めてあげた方がいいに決まってる。


 母さん達だって悪くない。

 俺は、お兄ちゃんなんだから。


 そう言い聞かせると、不思議と胸のモヤモヤは少しだけ小さくなった。


 ……いや。本当は、小さくしただけだった。


 その日からだった——


 何かあるたびに、自分へ「仕方ない」と言い聞かせるようになったのは。


         ◇◇◇


 気付けば、俺は中学生になっていた。

 湊ももう小学生だ。


 家事をすることも、弟の面倒を見ることも、もうすっかり日常になっていた。


 その頃は、勉強もそれなりに頑張っていた。


 少しでも親を安心させたくて。

 少しでも褒めてもらいたくて。


 そんな気持ちが、どこかにあったのかもしれない。


 ある日のことだった——


 「母さん、テスト返ってきた」


 鞄から答案用紙を取り出す。


 「へぇ」


 その紙には、98点と書かれている。

 あと二点で満点だった。


 母さんは答案を一度見て、小さく頷く。


 「よかったじゃない」


 たった、それだけだった。


 「……うん」


 俺は答案を静かに鞄へしまった。


 きっと忙しいんだ。

 それくらいでいい。


 “よかった”って言ってくれただけいいじゃないか。


 そう、自分に言い聞かせた。


 そして——


 次の定期テスト今度は少しだけ点数を落としてしまった。


 その答案を見た母さんは、小さくため息をつく。


 「凛馬——最近ちゃんと勉強してるの?」


 「……してるよ?」


 「じゃあ何でこんな点数なの?」


 その言葉に、何も返せなかった。


 「次はもっと頑張りなさい」


 「……うん」


 俺は黙って答案を受け取った。


 その数日後だった——


 「見て見て!」


 小学校から帰ってきた湊が、嬉しそうにテストを見せる。


 その点数は、決して高くはなかった。


 「湊、頑張ったじゃない!」


 母さんは笑顔で頭を撫でた。


 「前より点数上がってるじゃない!」


 「えへへ!」


 湊も嬉しそうに笑う。

 その様子を見ながら、俺も笑った。


 「よかったな……湊」


 心からそう思った。


 でも——胸の奥で小さな違和感が生まれる。


 俺が98点取ったって反応は薄かった——

 少し点を落とせば、怒られた。


 でも湊はどれだけ低くても——


 “頑張ったね”。


 そんな温かい言葉がかけられた。


 もちろん、学年も難しさだって違う。

 そんなことくらい分かっていた。


 だから誰も悪くない。

 誰も間違っていない。


 それでも——


 気付けば俺は、いつものように自分へ言い聞かせていた。


 「……なんでもない」


 その言葉だけが、少しずつ口癖になっていった。



         ◇◇◇


 高校へ入ってからだった。

 湊も中学生になり、もう手の掛かる年齢ではなくなっていた。


 それでも——


 俺の毎日は、何一つ変わらなかった。


 朝は誰よりも早く起きる。

 朝食を並べて、洗濯物を干して、ゴミをまとめる。


 学校へ行って。

 帰ってきたら夕飯の準備を手伝って、皿を洗う。


 それが終われば、自分の部屋で宿題をする。

 そんな毎日だった。


 毎日同じことを繰り返す。

 誰かの役に立てているはずなのに——


 “ありがとう”。


 いつからだろうか。

 その一言を、家で聞かなくなったのは。


 俺がやることは、いつの間にか“手伝い”じゃなくなっていた。


 やって当たり前——

 それが、俺の日常になっていた。


 でも、一つだけやってみたいことができた。


 ボクシング。


 テレビで試合を見たのがきっかけだった。

 殴り合いがしたいわけじゃない。


 ただ、一つのことへ本気で打ち込む人達が、すごく眩しく見えた。


 俺も何か夢中になれるものが欲しかった。


 何日も悩んで、

 何度も言葉を頭の中で繰り返して。


 夕食の後、ようやく口を開いた。


 「……母さん。俺、ボクシングやってみたいんだ」


 少しだけ緊張していた。

 人生で初めて、自分から”やりたい”と言った気がしたから。


 母さんは一瞬だけ手を止める。


 「ボクシング?」


 「うん、習いたいんだ」


 でもそして返ってきたのは、あっさりした言葉だった。


 「やりたいなら、自分のお金でやりなさい」


 「……え?」


 思わず聞き返す。


 「自分で稼いで、自分で払うなら好きにしたらいいわ」


 その言葉を聞いて、何も言えなくなった。


 「……分かった」


 そう返すしかなかった。

 別に間違ったことを言われたとは思わない。


 高校生なんだから、自分で払えと言われるのも当然なのかもしれない。


 だから、自分を納得させた。

 

 でも、その数か月後だった。


 「父さん! 俺、サッカー部入りたい!」


 リビングで嬉しそうに話す湊の声が聞こえた。


 「おっ、いいじゃないか!」


 父さんは笑顔になる。


 「スパイク見に行くか?」


 「ユニフォームも必要ね!」


 母さんもすぐに予定を立て始める。


 その週末には、新しいスパイク。

 練習着とバッグ。


 必要な物は、何一つ欠けることなく揃っていた。


 俺は、その様子を少し離れた場所から眺めていた。


 「…………」


 一瞬だけ。

 本当に、一瞬だけ思ってしまった。


 ――そのお金があるなら、少しくらい俺にも。


 胸の奥で生まれたその考えを、俺はすぐに押し込める。


 「……違う」


 湊は悪くない。

 母さん達だって悪くない。


 きっと、タイミングの問題だ。


 うん。そうだ。

 そういうことにしておこう。


 いつものように、自分へそう言い聞かせながら。


 俺は静かに、自分の部屋へ戻った。


         ◇◇◇


 気付けば、俺は大学生になっていた。


 大学へは、特待生として入学した。


 授業料が免除されるから、頑張った。


 親が費用を出してくれるとは、思わなかったから。

 

 教科書代や定期代、細かな出費はアルバイト代でどうにかしていた。


 だから——

 少なくとも大学に関しては、親へ大きな負担を掛けているつもりはなかった。


 そして朝は誰よりも早く起き、

 朝食を用意して、

 洗濯物を干して。


 大学へ行く。


 帰ってきたら家事を手伝い、自分の部屋へ戻る。


 そんないつも通りの毎日だった。


 ただ、一つだけ——


 ボクシングだけは続けていた。


 学校帰りにアルバイトをして、

 貯めたお金でジムへ通う。


 なんだか、これだけが俺を俺として見てくれてるような気がした。


 それだけが、俺の支えだった。


 「……住まわせてもらってるんだ」


 家事くらい、やって当然だろ。


 大学へ行かせてもらっているだけでも十分ありがたい。


 そう思っていた。

 だから、不満なんて口にしたことは一度もない。


 その日も、アルバイトを終えて家へ帰った。


 「ただいま」


 返事はないのはいつものことだった。


 俺は静かに靴を脱ぎ、そのまま自分の部屋へ向かおうとする。


 その時だった——


 リビングから、母さんと父さんの声が聞こえてきた。


 「凛馬、最近もボクシング行ってるの?」


 「あぁ」


 父さんが小さく息を吐く。


 「本気であれで食べていこうとしてるのか?」


 「……無理でしょ」


 母さんが苦笑混じりに答える。

 凛馬は目を見開く。


 「プロなんて一握りなんだから……

  夢を見るのもいいけどねぇ」


 二人は他愛もない世間話をするように話していた。


 悪意なんて、多分なかったんだろう。

 そう考えないと、心が今にも壊れそうだ。


 でもその言葉は、胸の奥へ深く突き刺さった。


 「それに——」


 父さんが続ける。


 「早く家を出ていってもらわないとな」


 「そうね——」


 母さんも軽く笑う。


 「いつまでも家にいられても困るし」


 「…………」


 俺は、その場から動けなかった。


 二人は、俺が帰ってきていることに気付いていなかった。


 だから——

 あれが本音だった。


 そして父さんが、小さく笑いながら口を開く。


 「それに比べて、湊は——」


 「……っ」


 その瞬間だった。

 心臓が、嫌な音を立てた。


 “聞いちゃいけない”。

 何故か、本能がそう叫んでいた。


 ここから先を聞けば、きっと何かが壊れる。


 俺は静かに踵を返す。

 足音を殺して、自分の部屋へ戻ろうとした。


 でも——


 「湊は将来が楽しみだよな」


 「ほんとねぇ。

  ちゃんと目標もあるし、友達も多いし」


 「……」


 足が止まる。

 止めたくなんてなかった。


 でも、止まってしまった。


 耳を塞ぎたかった。

 聞こえなくなればよかった。


 だけど——


 次に聞こえてきたその一言だけは、どうしても耳から離れてくれなかった。


 「“凛馬も、湊みたいだったらよかったのにね”」


 「……っ」


 そして俺は急いで扉を閉め、鍵を掛ける。


 ベッドへ腰を下ろした瞬間だった。


 「…………」


 何も考えられない。

 頭の中が真っ白だった。


 住まわせてもらっているし、何よりここまで育ててもらった。

 大学にも行かせてもらっている。


 感謝すべきだ。

 迷惑を掛けちゃいけない。


 ずっと、そう思ってきた。


 なのに——


 「……なんで」


 声が震えた。


 「俺じゃ……ダメかよ……」


 気付けば、肩が震えていた。

 今まで何度も仕方ないと飲み込んできた。


 「お兄ちゃんだから」


 「忙しいから」


 「俺が悪いから」


 そうやって、自分を納得させ続けてきた。


 でも……もう限界だった。


 「……っ!」


 視界が滲む。

 頬を伝う雫が、布団へ落ちた。


 あれ……俺泣いてる。


 最後に泣いたのは、いつだっただろう。

 なんだか思い出せない。


 「っ……ぅ……」


 声を殺そうとしても、嗚咽が漏れる。


 そして俺は誰にも聞こえないように。

 誰にも迷惑を掛けないように。

 俺は顔を枕へ押しつけ、一人きりで泣き続けた。


 この日からだった——


 「“俺って、なんなんだろう”」


 そう考えるようになったのは。


 

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