あなたが呼んでる
あの日以来。
俺の中で、何かが変わった。
……いや。
壊れた、と言った方が正しいのかもしれない。
大学生活は、思っていたよりずっと静かだった。
講義を受けて、アルバイトへ行って。
暇があればボクシングジムへ通って。
そして家へ帰れば、家事をする。
また朝が来て、同じ一日を繰り返す。
毎日はちゃんと進んでいる。
なのに——
俺の心だけは、あの日から止まったままだった。
「……」
大学で友達はできなかった。
話しかけられることはあっても、自分から輪へ入ることはなかった。
入れなかった、の方が正しいかもしれない。
笑い方も、何を話せばいいのかも、分からなくなってしまった。
別に寂しくなんてない。
そう思おうとしていた。
でも、本当は——
「……俺ももっと、話したかったんだけどなぁ——」
そう小さく呟いても……
その言葉を聞く人は誰もいなかった。
本当のことなんて、誰にも言えない。
言ってしまえば、周りを巻き込んでしまう。
だから俺はまた笑った。
何事も無いように、いつも通りに。
◇◇◇
その日も、いつもと変わらない一日だった。
大学の講義を終え、駅へ向かって歩く。
イヤホンから流れる音楽をぼんやり聞きながら、人混みの中を進む。
「今日の晩飯、どうしようかな……」
財布の中身を思い浮かべ、小さく苦笑する。
家へ帰れば、またいつもの日常が待っている。
そう思っていた。
——次の瞬間までは。
視界が、真っ白な光に包まれた。
「……え?」
俺は、その光の中へ飲み込まれていった。
目を開けた時——
そこは、俺の知る世界ではなかった。
◇◇◇
風が、静かに木々を揺らした。
「……」
気付けば、俺は俯いていた。
どれくらい話していたんだろう。
昔のことなんて、誰かに話したのは初めてだった。
「……ごめん」
気付けば、そんな言葉が口から漏れていた。
「なんか……暗い話ばっかりだったな」
ミケは何も答えない。
ただ、小さく俯いたままだった。
「……ミケ?」
不思議に思って顔を上げる。
すると——
ミケは、泣いていた。
涙が次から次へと溢れ落ちる。
「……え」
思わず言葉を失う。
なんで……なんでミケが泣くんだよ。
泣かせるつもりなんてなかったのに。
「ご、ごめ——」
謝ろうとした、その時だった。
「違うにゃ……」
ミケは首を横に振る。
涙をぽろぽろ零しながら、それでも俺を真っ直ぐ見つめていた。
「ごめんじゃないにゃ……」
袖で涙を拭おうとしても、次から次へと溢れてくる。
「ずっと、一人だったんだね……」
その一言で、胸が小さく痛んだ。
俺は何も言えなかった。
風だけが、二人の間を静かに通り抜けていく。
「私ね……」
しばらくして、ミケがぽつりと口を開いた。
「家族って、当たり前にいるものだと思ってた」
「……」
「喧嘩もするし、怒られることもある。
でもご飯を食べて、笑って、『おかえり』って言って——」
「それが普通なんだって、ずっと思ってた」
ミケは涙を拭いながら、小さく笑う。
「だから……凛馬の話を聞いて、胸が苦しくなった」
「なんで、そんな優しい人が——
一人で泣かなきゃいけなかったのって」
俺は俯いた。
やっぱり返す言葉なんて、一つも見つからない。
すると、不意にミケの手が、そっと俺の手へ重なった。
ただ、そこにいると伝えるように優しく。
「やっぱり凛馬は何も言わなかったけど……
ずっと、助けてって言ってた気がした」
その声は、とても小さかった。
だけど——
今まで聞いたどんな言葉よりも、はっきりと俺の心へ届いた。
「……ありがとう」
ようやく、俺はそれだけ言えた。
でも、ミケは首を横に振った。
「まだ、終わってないにゃ」
「……え?」
ミケは少しだけ俯く。
耳がぴくりと震えていた。
多分、何かを言おうとしている。
でも言葉にできない。
そんな様子だった。
「……私ね」
小さな声が、静かな広場に響く。
「さっき……凛馬の家族のところへ帰った方がいいって言ったにゃ」
「うん……」
ミケはゆっくり頷いた。
「家族は、大切だから——」
「……」
「だから、凛馬が帰るって決めても……私は止めない」
その言葉に、胸が締め付けられる。
少しだけ困ったように笑う。
「でも——」
その一言だけで、空気が変わる。
「これは……私のわがままにゃけど——」
そして、ミケは意を決したように俺を見上げた。
「もし凛馬が、まだ答えを決めてなくて……
もし少しでも迷ってるなら……」
そこでミケはもう一度息を吸い込んだ。
「私は……」
そして——
「私は、凛馬に“この世界にいてほしい”。」
その言葉は震えていた。
でも嘘なんて一つもない。
その目を見れば、そんな事わかってしまう。
「もっと一緒に笑いたいし、
もっと……家族でいたい——」
涙が、またぽろりと零れる。
「やっぱり帰っちゃうなんて……嫌だにゃ」
その一言を言い終えた瞬間だった——
ミケは堪えきれなくなったように、一歩踏み出す。
「……っ!」
次の瞬間——
ふわりと、小さな身体が俺を抱きしめていた。
「ミケ……?」
驚いて目を見開く。
ミケは何も答えない。
ただ、俺の服をぎゅっと掴み、小さく震えていた。
「嫌なんだにゃ……」
か細い声が胸元から聞こえる。
「せっかく会えたのに……
また、一人にさせちゃうのは嫌だにゃ……」
ぽろぽろと涙が零れ、制服へ小さな染みを作っていく。
「本当は、ずっとそう言いたかった。
でも……凛馬を困らせたくなかった」
その抱きしめる力は、決して強くなかった。
逃がさないためってわけじゃなかった。
消えてしまいそうな俺を、必死に繋ぎ止めようとしているようだった。
「でもごめん、やっぱり私……
凛馬にここにいてほしい」
「……」
何も言えなかった。
腕の中で震えるミケの温もりだけが、はっきりと伝わってくる。
こんなに近くで、こんなにも必死に。
俺を引き止めてくれる人なんて、今まで一人もいなかった。
「……」
抱き返したい。
その気持ちは、確かにあった。
でも——
頭のどこかで思ってしまう。
“そんなことをしたら、もっと帰れなくなる”
“もっと別れが辛くなる”
その思考が、俺の腕を止めていた。
「……っ」
拳をぎゅっと握る。
どうすればいい? 何が正しい?
帰るべきなのか残るべきなのか、もう自分でも分からない。
だけど——
腕の中のミケは、小さく震えながらも俺を離そうとはしなかった。
「もう少しだけでいいから……
一緒にいてほしい……」
その声は、涙で震えていた。
そんな声が俺の胸の奥へ静かに届く。
「……なんでだよ」
返事はなかった。
代わりに、ミケの小さな手が制服を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。
それだけで良かった。
「……」
そして、自然と腕が動く。
恐る恐る、壊れ物に触れるみたいに。
そっと、ミケの背中へ手を回した。
「……っ」
俺はミケを抱き返した。
力はほとんど入らなかった。
ミケは一瞬だけ肩を震わせた。
「……凛馬?」
嬉しそうに、俺の名前を呼ぶ。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
あぁ——
俺は今、ミケを抱きしめている。
そして、ミケに抱きしめられている。
誰かと抱き合うなんて、初めてだった。
「……俺さ。こんなふうに抱きしめられたこと、ないんだ」
その声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
「だから……」
腕の中の温もりを、確かめるように少しだけ目を閉じる。
「なんか、分かんないけど……
少しだけ、安心した」
その言葉を聞いたミケは、何も言わなかった。
ただ、抱きしめる腕にほんの少しだけ力を込める。
それだけで十分伝わった。
今だけは帰ることも、残ることも何も考えなくていい気がした。
そう思えたのは生まれて初めてだった。
すると——
キーンコーンカーンコーン——
不意に、昼休みの終わりを告げるチャイムが校内へ響いた。
「……あ」
二人同時に、小さく顔を上げる。
静かな時間が、ゆっくりと現実へ引き戻されていく。
ミケは少し名残惜しそうに腕を離した。
涙の跡を袖でごしごしと拭く。
「……はは」
思わず小さく笑ってしまった。
「泣きすぎだろ」
「う、うるさいにゃ!」
耳を真っ赤にしながら頬を膨らませる。
その姿はいつものミケだった。
さっきまで泣いていたとは思えないくらい必死に笑おうとしていて。
なんだか、おかしくなってしまった。
「でも……ありがとな」
自然と、その言葉が口からこぼれる。
ミケは少しだけ目を丸くした。
そして、いつもの笑顔で頷く。
「にゃ!」
立ち上がると、くるりと俺の方を振り返る。
「さ! 帰るにゃよ!」
手を差し出し、にこっと笑う。
その”帰る”という言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
“帰る場所”。
その意味が、ほんの少しだけ変わった気がした。
俺はその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
「……あぁ」
二人並んで歩き出す。
木漏れ日の差す小道を抜け、賑やかな校舎へ戻っていく。
さっきまでと同じ景色だけど……
世界が少しだけ、違って見えた。
帰れば幸せになれる保証なんてない。
残れば幸せになれる保証もない。
正しい答えなんて、多分どこにもない。
だけど今だけは——
もう少しだけ、この世界にいてもいいのかもしれない。
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