二つの世界
俺は学園長の後ろを歩いていた。
訓練場から聞こえる歓声は、少しずつ遠ざかっていった。
「……」
俺は何も話せなかった。
胸の奥が妙に落ち着かない。
“帰還”。
その二文字が頭の中で何度も繰り返される。
遂に帰れる。
それだけで十分嬉しいはずなのに——
「こちらだよ」
そう言うと学園長は立ち止まった。
辺りを見回してみる。
学園の本館裏にある、小さな石畳の道だった。
普段生徒が立ち入ることはないのだろう。
人の気配はなく、木々が風に揺れる音だけが静かに響いていた。
「座ろうか」
学園長は近くに置かれた木製のベンチへ腰掛ける。
俺は少し迷ったけど……隣へ座った。
何故だろうか。
帰還の話を聞くのが——怖かったのかもしれない。
「突然呼び出してしまってすまないね」
学園長は空を見上げ、小さく笑った。
「い、いえ……」
俺は姿勢を正し、覚悟を決めた。
「それで……」
今度は俺から話を切り出す。
「帰還の件って……
どう言う事ですか?」
学園長は俺の目をまっすぐ見て話し始める。
その瞳は真剣そのものだった。
「まず、一つ聞かせてほしい。君は——」
少しだけ間を置いて、静かに尋ねた。
「元の世界へ帰りたいかい?」
その一言で、時間が止まったような気がした。
「……」
俺はすぐに答えられなかった。
帰りたいはずだった。
なんなら頭では常にそう思っている。
でも、何故か口が動かなかった。
不意に、元の世界での日々が脳裏をよぎる。
1人で大学へ向かい、授業を受け——
そしてまた一人で帰る。
特別嫌だったわけじゃないが——
特別楽しかったわけでもない。
気付けば、一人でいることが当たり前になっていた。
だからこそ、この世界へ来たばかりの頃は戸惑った。
朝になればミケが無理やり起こしに来る。
アオ達が校門で待っていてくれる。
ギンガ達とくだらないやり取りをして、皆で笑う。
そんな毎日が、少しずつ当たり前になっていた。
「……」
だが、向こうには家族がいる。
俺が突然消えて、母さん達はどう思っただろう。
事故に遭ったと思っているのか?
それとも、まだ必死に探してくれているのか?
その姿を想像しただけで、胸が締め付けられた。
……だけど。
もし帰れたとして——
俺を待っているのは、あの日常だ。
同じ家に暮らしていても、どこか一歩引いたまま過ごしていた毎日。
家族が嫌いだったわけじゃない。
ただ、俺にはずっと、自分の居場所が分からなかった。
“帰還”。
その言葉を聞いた瞬間、嬉しさより先に胸をよぎったのは——
「怖い」
そんな感情だった。
「帰りたい……です」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……」
俺は今、確かに自分の口で「帰りたい」と言った。
なのに——
その言葉が、どこか他人事みたいに聞こえた。
本当にそう思ったからなのか——
家族がいるから?
それとも——
帰りたいと答えるのが、当たり前だと思ったからなのか。
答えた自分が、何故か分からなかった。
「……そうか」
学園長は優しい声だった。
“否定されなかった”。
その事実だけで、少し救われた気がした。
「では、もう一つ聞こう」
学園長は穏やかな笑みを浮かべたまま、続ける。
「もし——
帰れなくなるとしたら、この世界に未練はあるかい?」
「……」
また、すぐには答えられなかった。
だが——
さっきまで頭に浮かんでいたのは、家族の事だった。
でも今度は違う。
真っ先に浮かんだのは——
「凛馬ぁー!」
そう言いながら駆け寄ってくるミケ。
「この名前だけは覚えとけ」
そう言って豪快に笑うギンガ。
そしてくだらないことで笑い合う昼休み。
教室で交わす何気ない会話。
ぶっきらぼうだけど、どこか温かい先生達。
皆異邦人である自分を、温かく迎え入れてくれた。
常に誰かがいて、常に誰かが笑っている。
そんな皆と一緒にいると、自分まで笑えた。
出会って、まだ四日。
たった四日しか経っていない。
それなのに——
「……あります」
気付けば、そう答えていた。
「俺には……皆がいますから」
その言葉は、さっきよりもずっと自然に口から出ていた。
でも、不思議なくらいに——
その言葉だけは自然に口をついて出た。
「……そうか」
学園長は小さく頷いた。その表情はどこか安心したようにも見えた。
「安心したよ」
「……え?」
思わず聞き返した。
まだ俺は残るとは言っていないのに……
学園長は穏やかに笑った。
「もし君が、『この世界に未練はない』と答えていたら——
話したかったことが話せなかったかもしれない」
「……どういうことですか?」
学園長はベンチから立ち上がると、静かに空を見上げた。
「凛馬くん。
君は先ほど、帰還について聞いたね」
「……はい」
「その話をする前に、一つだけ知っておいてほしいことがある」
少しだけ風が吹く。
木々が揺れ、葉の擦れる音だけが辺りに響いた。
そして学園長は、ゆっくりと口を開いた。
「君は——
この世界へ来た最初の人間ではない」
「……え?」
思考が止まった。
「人間が……俺以外にも?」
ふと、以前図書室で見つけた古い本を思い出す。
『光の中より現れ、光の中へ消え、世界を渡る旅人なり』
俺と状況が一緒……ぐらいしか分からなかったけど——
今ならこの真意が少し分かった気がする。
「前に図書室で、異邦人について書かれた本を見たことがあります」
学園長が俺を見た。
「昔、この世界にも人間が来たって……
あれって、本当だったんですか?」
学園長は静かに頷いた。
「約二百年前——
一人の異邦人が、この世界へ現れた」
「そして彼女は、我々獣人に大きな変化をもたらしたんだ」
「大きな……変化?」
思わず聞いてしまった。
「教育、文化——
今の獣人の生き方の基盤となった」
学園長は穏やかに微笑む。
「そして、この場所こそが——
その異邦人が最初に現れた場所なんだ。」
思わず辺りを見回した。
この毎日来ている学園にそんな秘密があったとは——
「もちろん、当時は学校などなかったが、
この地には今でも異邦人の足跡が数多く残されている。」
「その歴史を守り、後世へ伝えるため、この学園は建てられた。」
学園長はゆっくりと校舎を見上げる。
「私は長年この学園を預かる者として、その歴史を調べ続けてきた。
私個人としても人間という存在には、強い興味があってね。」
そう語る学園長の目は、少し輝いてる様に見えた。
「そして文献を集め、人間界についても数多く研究してきたんだ。」
「……あれ?」
俺にふと疑問が浮かぶ。
それなら何故——あんなに人間の資料が少なかったのか?
「でも……この前図書館を探した時、人間について書かれた本って少なかったんですけど……」
俺は気付けばそう聞いていた。
学園長は静かに頷いた。
「その通りだ。
かつては今よりも遥かに多くの資料が残されていた。」
そう言って、どこか寂しそうに目を細めた。
「しかし、二百年という歳月の中で失われたものも多い。
風化、災害、戦乱……理由は様々だ。」
「現存している資料も、そのほとんどが断片的なものばかりだ。
君が図書室で見た本も、その一つだよ。」
学園長は静かに続ける。
「そして、その異邦人にも君と同じように、元の世界へ帰る機会があった。」
「……!」
俺は思わず息を呑む。
「だが、その異邦人は帰ることを選ばなかった。」
俺は言葉を失った。
帰れるのに、帰らなかったのか……?
「『私は君たちと生きる』。
そう言い残し、この世界で生きる道を選んだんだ。」
「当時の獣人達は、種族ごとに縄張りを作り、互いを恐れ、争いながら生きていた。」
「しかし、その異邦人は違った。種族の違いではなく、一人ひとりを見て接した。」
学園長は優しく微笑む。
「そして、この世界に『共に生きる』という考え方を伝えた。」
「愛……ですか」
「その教えは少しずつ世界へ広がり、やがて種族ごとの縄張りという概念は薄れ、今の獣界の礎となった。」
学園長は静かに校舎を見上げる。
「この学園もまた、その想いを受け継ぐ場所なのだよ」
「……そんな人が、本当にいたんですね」
気付けば、そんな言葉が口をついていた。
学園長は穏やかに頷く。
「だからこそ、君がこの世界へ現れた時……私は運命のようなものを感じた。」
「運命……?」
「君は二百年ぶりの異邦人だった。」
学園長は静かに歩き出す。
俺もその後を追った。
「その異邦人が帰らなかったことで、一つだけ残されたものがある。」
「残されたもの……?」
「異界へと繋がる門だ。」
「!」
思わず息を呑んだ。
「本来であれば、その門は役目を終え、閉じるはずだった。
しかし、異邦人は帰還を選ばなかった。」
「じゃあ門は……?」
「門だけがこの世界に残り続けたんだ」
俺は驚きを隠せなかった。
毎日通っていたこの学園のすぐ近くに——
世界へ繋がる門があったなんて。
「ただし、そのまま放置しているわけではない。先人が門がある場所に学園を建て、歴代の学園長が封印と監視を続けている。」
「えっ……」
「もちろん、生徒達は誰も知らない。
知る必要のない歴史だからね。」
学園長の表情が少しだけ曇る。
「だが門は、長い年月の中で少しずつ閉じ始めている」
「……閉じる?」
「以前は人が何人も行き来できるほど安定していたと記録されているが、今は違う。」
学園長は静かに首を横へ振った。
「君が現れた後、封印を一時的に解除して門の状態を確認してみたんだ。」
「すると門は、“以前とは比べものにならないほど小さくなっていた”。」
俺は思わず息を呑む。
「人一人が通れるかどうか……それほどまでに縮小していたんだ。」
「それって……」
「正確にいつ閉じるかは分からない。」
「明日かもしれないし、一年後かもしれない——」
学園長は真っ直ぐ俺を見つめた。
「一つ言えることは、悩んでいる時間はあまり残されていない。」
「門が完全に閉じれば——」
少し時間を置き、静かに告げる。
「君は、“二度と元の世界へ帰れなくなる”。」
静寂が流れた。
風に揺れる木々の音だけが、静かに耳へ届く。
「……すまない」
学園長がぽつりと呟いた。
「突然こんな話をして、君を急かすような形になってしまったね。」
「……」
「だが、門が閉じてしまえば、もう私達にはどうすることもできない。だからこそ、すぐにでも伝えなければならなかった。」
学園長は深く頭を下げた。
「本当に、すまない」
俺は何も言えなかった。
“帰れる”。
その事実だけを聞けば、数日前の俺なら迷わず喜んでいたはずだ。
なのに今は違う。
帰れば、もう二度とこの世界には来られない。
そして、ミケ達とはもう笑い合えない。
かといって、この世界に残れば——
家族とは二度と会えなくなる。
どちらを選んでも、誰かと別れなければならない。
そんな選択を、たった四日で決められる訳はなかった。
「……少しだけ」
俺はゆっくりと顔を上げる。
「もう少しだけ、考える時間をください」
学園長は優しく微笑んだ。
「ああ、その答えだけで十分だ。
君が真剣に悩んでくれていることは、よく伝わったからね。」
すると——
キーンコーンカーンコーン——
校舎中にチャイムが鳴り響いた。
静かな空気を裂くように、その音が辺りへ広がる。
学園長は空を見上げ、小さく笑った。
「どうやら授業が終わったようだな」
「……」
「戻りなさい、皆が君を待っている」
俺はゆっくりと踵を返す。
それでも、足は重かった。
「凛馬くん」
背中に声が掛かる。
振り返ると、学園長はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「君が最後にどちらを選んだとしても——
私は、その選択を尊重しよう」
「帰ると決めたなら、全力で君を元の世界へ送り届ける。
残ると決めたなら、この世界で生きていけるよう、私ができる限り力になろう。」
「どちらを選んでも、君は一人じゃない。だから——」
「焦らないでほしい。自分の心が出した答えを、大切にしなさい」
「……」
胸の奥に張り詰めていた何かが、少しだけほどけた気がした。
帰るか、残るか。
答えはまだ出せない。
それでも——
この人は、俺の答えを否定しない。
その事実だけで、不思議と心が軽くなった。
俺はしばらく学園長を見つめる。
「……はい」
自然と、さっきよりも力の入った返事が出た。
学園長は満足そうに頷く。
その返事だけで、今は十分だった。
俺は訓練場へ向かって歩き出した。
頭の中には、帰るという未来と、この世界に残るという未来。
その二つが、まだ答えの出ないまま並んでいた。
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