第五話 戦をしとるんじゃない
徳蔵の葬儀は、小さかった。
長崎の外れの寺に、漁師が数人と、近所の商人が集まった。それだけだった。かつて福浦の港で顔の広かった男の最後としては、静かすぎた。
龍馬は端に立って、線香の煙を見ていた。
汐は泣かなかった。
ただ、ずっと父の位牌を見ていた。
――――――
三日後、龍馬はグレイを訪ねた。
今度は呼ばれたわけではなかった。自分から行った。
英国商館の二階、壁一面の海図。前回と何も変わっていなかった。ただ、赤い航路線が一本増えていた。福浦を迂回して、隣町の新しい補給所へ向かう線が。
グレイは龍馬を見て、椅子を勧めた。
龍馬は座らなかった。
「福浦の石炭商が死にました」
グレイは静かに言った。
「……聞きました」
「あなたの会社の保険が、査定を変えた」
「ええ」
「修繕の発注を止めたのも、英国系の商社です」
「坂本さん」グレイは穏やかに遮った。「私はあなたに、嘘をついたことはありません」
「知っています」
「では聞いてください」グレイは海図の前に立った。「福浦の港は、設備が古かった。水深の維持にコストがかかる。石炭の品質も不均一だった。我々が査定を変えたのは、数字の問題です」
龍馬は黙っていた。
グレイは続けた。
「隣町の補給所は、新しい設備を持っています。より多くの船が、より速く、より安く補給できる。交易量は増える。物流は安定する。結果として、この地域全体が豊かになります」
「徳蔵さんは死にました」
「……ええ」
「あなたの言っていることは、全部正しい」龍馬は言った。「反論できません」
グレイは少し目を伏せた。
「しかし」龍馬は海図を見た。「人が死んだ」
「残念なことです」グレイは本当に、そう思っているように見えた。「しかし、港は以前より多くの貨物を扱えるようになりました。より多くの人間が、仕事を得ます」
「その人間の中に、徳蔵さんはおらん」
グレイは答えなかった。
龍馬は海図から目を離し、グレイを見た。
「あなたはインドにいたことがある」
グレイの目が、わずかに動いた。
「焼かれた村を見たことがありますか」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
グレイはそれでも、静かに言った。
「文明化の過程では、痛みが伴います。しかし止まれば、世界はより悪くなる。私はそう信じています」
「信じている」龍馬は繰り返した。「あなたは本当に、信じているんですね」
「ええ」
「だから怖い」
グレイは何も言わなかった。
龍馬は窓の外を見た。港が見えた。蒸気船の黒煙。波止場に並ぶ荷。忙しく動く人々。その向こうに、福浦があった。もう煙は出ていない。
龍馬はしばらく、その景色を見ていた。
働いていた人々を思い出した。
徳蔵の、空っぽの目。
汐の、泣かない顔。
「坂本さん」グレイが言った。「あなたは理解できる人だ。我々と、一緒に働きませんか」
龍馬は窓から目を離さなかった。
「これは文明化です」グレイは続けた。「日本はまだ、その入り口に立っている。あなたのような人間が必要です」
龍馬は長い間、黙っていた。
煙を見ていた。
波止場を見ていた。
港に並ぶ荷を見ていた。
そして汐の言葉が戻ってきた。
——人が、そこしか選べなくなるようにするんです。
龍馬はゆっくりと、グレイに向き直った。
「……違う」
グレイは首を傾げた。
龍馬は言葉を探した。まだ理論にならなかった。頭ではなく、身体が言おうとしていた。
「文明化やない」
声が、少し変わっていた。
「あんたらは、人の生き方そのものを入れ替えよる」
グレイは静かに龍馬を見た。
「港を買うんやない」龍馬は続けた。「人が、あんたらしか選べんようにする。そうやって、国ごと形を変える」
「それが——」
「戦をしとるんじゃない」
グレイは口を閉じた。
「刀も銃も要らん」龍馬は言った。「帳簿と保険と、航路図があれば、国が取れる」
部屋が静かだった。
グレイはしばらく龍馬を見ていた。それから、静かに言った。
「……あなたは、正しい」
龍馬は何も言わなかった。
「だから」グレイは続けた。「一緒に来てください」
龍馬は海図を見た。赤い線が、アジア全域に走っていた。日本は端にあった。まだ線が薄かった。
龍馬は踵を返した。
「断ります」
「なぜですか」
龍馬は扉に手をかけたまま、少し止まった。
「まだ、分からんけん」
それだけ言った。
扉を開けた。
――――――
波止場に出ると、風があった。
龍馬は立ち止まらなかった。歩きながら、頭の中を整理しようとした。できなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
刀では斬れない。
銃でも届かない。
帳簿と航路と保険で動く、この戦に、海援隊は何で挑むのか。
まだ答えはなかった。
だが、問いだけが、くっきりと立った。
龍馬は長崎の空を見上げた。
霧は、晴れていた。
Company 第一部 霧の港 完




