第三話 利益の流れ
グレイという男は、いつも静かだった。
怒鳴らない。急がない。値切らない。龍馬が長崎で会った外国商人の中で、最も静かな男だった。
アレクサンダー・グレイ。東インド会社の極東担当。元インド駐在。年齢は四十前後、髪に白いものが混じっている。目が青く、深い。海の色というより、地図の色だと龍馬は思った。
二人が初めて会ったのは、グラバー邸の夜会だった。
龍馬は商談のついでに顔を出した。グレイは窓際に立ち、ひとりで港を見ていた。
「美しい港ですね」グレイは日本語で言った。流暢ではないが、意味は通じた。
「そうですか」龍馬は隣に立った。「あなたには、どう見えますか」
グレイは少し考えてから答えた。
「可能性です」
――――――
三日後、龍馬はグレイを訪ねた。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。ただ、あの目が気になった。港を見るあの目が。
グレイの事務所は英国商館の二階にあった。壁一面に海図が貼られていた。アジア全域。インド洋。太平洋。航路が赤い線で引かれていた。
龍馬は地図を見た。
日本は端にあった。
「座ってください」グレイは茶を出した。英国式の紅茶だった。龍馬は黙って受け取った。
「長崎の石炭問屋が、三軒潰れました」龍馬は言った。前置きなしに。
グレイは表情を変えなかった。
「知っています」
「あなたの会社の保険が、査定を変えた」
「ええ」
「なぜですか」
グレイは紅茶を一口飲んだ。それから龍馬を見た。
「坂本さん、あなたは商人ですね」
「そうです」
「では分かるはずです」グレイは立ち上がり、壁の海図に近づいた。「物流というのは、集中させるほど強くなる。小さな港に荷を分散させるより、深くて大きな港に集めた方が、コストが下がる。保険も安くなる。船の回転も上がる」
「それは分かります」
「では、なぜ問題があるのですか」
龍馬は答えなかった。
グレイは続けた。
「長崎近郊の小港は、設備が古かった。水深の維持にコストがかかる。石炭の品質も均一ではない。我々はリスクを数字で見ています。感情ではなく」
「その数字を、誰が作っていますか」
グレイは少し止まった。
それから静かに言った。
「市場です」
「市場を作っているのは人間です」
徳蔵の言葉が、龍馬の口から出た。グレイは龍馬を見た。今度は少し違う目で。
「あなたは理解が早い」グレイは言った。「日本人には珍しい」
龍馬は何も言わなかった。
褒められた気がしなかった。
――――――
帰り道、龍馬は海図の赤い線を思い出していた。
アジア全域に引かれた航路。その線は、ある港を通り、ある港を避けていた。
通る港は栄える。
避けられた港は、静かに死ぬ。
線を引くのは誰か。
市場だとグレイは言った。
だが線を引いた手は、確かにあるはずだった。
――――――
その夜、汐が店の前で荷の整理をしていた。
龍馬は足を止めた。
「グレイという英国人を知っているか」
汐は手を止めなかった。
「知っています」
「どんな男だと思う」
汐はしばらく黙った。それから言った。
「嘘をつかない人だと思います」
「ほう」
「でも」汐は荷を持ち上げた。「本当のことしか言わない人が、一番怖い」
龍馬は黙って聞いた。
「嘘なら、見破れます」汐は店の中へ入りながら言った。「でも本当のことで追い詰められたら、どう逃げますか」
引き戸が閉まった。
龍馬は暗い波止場に立ったまま、しばらく動けなかった。




