第二話 値の崩れ方
長崎には、噂が港から来る。
船が着く前に値が動く。荷が降りる前に商人の顔色が変わる。龍馬が海援隊の仕事で長崎に入るたびに感じることだった。この街は、情報そのものが商品になっている。
その日、龍馬は大浦の石炭問屋が潰れたと聞いた。
三軒目だった。
「また保険が下りんかったらしい」
船宿の主人が、世間話のように言った。龍馬は茶を飲みながら聞いていた。
「保険会社はどこじゃ」
「英国系のどこかでしょう。最近はみんなそこしかない」
みんなそこしかない。
龍馬はその言葉を、胸の中で一度繰り返した。
――――――
夕方、龍馬は汐の父の店を訪ねた。
父親の名は徳蔵といった。五十がらみの、日に焼けた商人だった。石炭を扱って三十年、長崎港の水深を自分の掌のように知っている男だ。
「坂本さん、うちに何の用ですか」
徳蔵は帳簿から目を上げなかった。愛想がないのではない。それだけ追われているのだと龍馬には分かった。
「少し聞きたいことがある」龍馬は座った。「最近、保険が変わったか」
徳蔵の手が止まった。
「変わりましたよ」静かに言った。「去年まで使えとった国内の請負が、気づいたら軒並み値を上げとる。英国系に替えたら安い。だからみんな替えた」
「替えたら、どうなった」
「最初は良かった」徳蔵は帳簿を閉じた。「支払いも早い。書類も分かりやすい。でも」
龍馬は待った。
「半年したら、査定が変わった」徳蔵は窓の外を見た。「うちの港は、リスクが高いと言われた。保険料が上がった。同じ港で、同じ荷で」
「理由は」
「古い設備。水深が浅い。石炭の品質が不安定」徳蔵は静かに笑った。笑うしかない、という顔だった。「全部、昔から変わっとらん。去年まで問題なかったのに」
龍馬は黙った。
徳蔵が続けた。
「坂本さん、値というのは、誰かが決めるものです。市場が決めると言うが、市場を作っとるのは人間だ」
龍馬は帳簿の表紙を見た。端が擦り切れていた。長年使い込まれた帳簿だった。
――――――
帰り道、龍馬は波止場沿いを歩いた。
頭の中で、数字が並んでいた。
三軒の石炭問屋。全部、同じ保険会社。全部、同じ時期に査定が変わった。そして積荷目録の赤印。港湾図を欲しがる英国商人。
バラバラに見える。
だが何かが、繋がろうとしていた。
龍馬はまだ、それを言葉にできなかった。
ただ、足が止まった。
目の前に、閉まった問屋があった。先月まで開いていた店だ。戸に板が打ち付けられている。
その隣に、真新しい看板が立っていた。
英語で書かれていた。
龍馬は読めた。
海運代理店。
開業、今月。
――――――
その夜、龍馬は宿で積荷目録を広げた。
赤印の位置を、もう一度確かめた。
長崎近郊の港が、四つ。全部、小さい。全部、水深が深い。全部、石炭の補給に向いている。
そして全部、最近、何かがおかしい。
龍馬は煙草に火をつけた。
窓の外で、蒸気船の汽笛が鳴った。
「……値を崩して、人を追い出して」
龍馬はひとりごとを言った。
「それから、買う」
まだ確証はない。
だが初めて、霧の向こうに輪郭が見えた気がした。




