第二十一話 薩摩の男
その週、薩摩から男が来た。
西郷隆盛の使いだった。
名前は桐野といった。三十前後。大柄で、目が鋭かった。刀の扱いに慣れた体をしていた。言葉が少なかった。
龍馬とは、以前に一度だけ会ったことがあった。
その時の桐野は、龍馬を「面白い男」と言った。
今日の桐野は、龍馬を見て少し止まった。
「変わりましたね」桐野は言った。
「そうか」
「目が」桐野は言った。「商人みたいになった」
龍馬は苦笑した。
中岡に言われ、汐に言われ、今度は桐野にも言われた。
――――――
二人で向き合った。
「西郷さんからの話は」龍馬は言った。
「幕府との決戦が近い」桐野は言った。「薩長は動く。その前に、坂本さんに動いてほしいことがある」
「何を」
「各藩の調整じゃ」桐野は言った。「薩長だけでは、戦後の絵が描けん。土佐を動かしてほしい」
龍馬は黙って聞いた。
「土佐が動けば、他の藩も動く」桐野は続けた。「薩長対幕府の戦ではなく、日本全体の話にできる」
「それは、分かっとります」龍馬は言った。「ただ」
「ただ」
「戦の後のことを、考えとりますか」
桐野は少し止まった。
「戦の後」
「ええ」龍馬は言った。「幕府を倒した後、日本がどうなるかを」
「新政府ができる」桐野は言った。「天皇を中心に、新しい国を作る」
「その国が、東インド会社に飲まれないようにする設計が、できとりますか」
桐野は龍馬を見た。
「東インド会社」桐野は繰り返した。「それは、異国の商売の話じゃないですか」
「商売の話が、国の話になる」龍馬は言った。「インドがそうだった。中国がそうなりつつある」
桐野はしばらく黙った。
「西郷さんは、その話を知っとりますか」
「一度、話した」龍馬は言った。「聞いてくれた。だが、まだ腑に落ちていない様子だった」
「なぜですか」
龍馬は少し考えた。
「戦う相手が、見えないからじゃ」龍馬は言った。「西郷さんは、見える敵と戦う人間だ。幕府は見える。外国の軍艦は見える。だが保険会社と航路と電信は、見えない」
桐野は龍馬を見た。
「坂本さんには、見えるんですか」
「見えるようになってきた」龍馬は言った。「上海とロンドンで、見方を覚えた」
「どう見えますか」
龍馬は窓の外を見た。
長崎の港が見えた。
「今この瞬間も、日本の港は少しずつ、外国の仕組みに組み込まれとる」龍馬は言った。「保険が変わる。航路が変わる。値が変わる。気づいた時には、選べなくなっとる」
桐野はしばらく黙った。
「それを、止めるんですか」
「止めるんじゃない」龍馬は言った。「日本の仕組みを作る。先に作れば、向こうの仕組みに飲まれにくくなる」
「海援隊が、その仕組みを作るんですか」
「海援隊が、核になる」龍馬は言った。「だが一つの組織では足りん。薩摩も要る。長州も要る。土佐も要る」
桐野は龍馬を見た。
「それは」桐野は言った。「西郷さんが考えとる戦後の話と、ぶつかるかもしれん」
「どうぶつかる」
「西郷さんは、新政府を中心に全部まとめようとしとる」桐野は言った。「坂本さんの話は、民間が動く話に聞こえる」
「ぶつかります」龍馬は言った。「いつか、必ず」
「それでも、やるんですか」
「やらにゃならん」龍馬は言った。「国だけに任せたら、国が飲まれる。インドがそうだった」
桐野はしばらく龍馬を見ていた。
「坂本さん」桐野は言った。「あんた、ロンドンに行って、何かに憑かれて帰ってきたんじゃないですか」
龍馬は少し笑った。
「そうかもしれん」
「怖い話ですね」
「怖い」龍馬は頷いた。「でも、知らんふりはできん。見てしまったけん」
桐野は黙った。
しばらして、静かに言った。
「西郷さんに、伝えます」
「何を」
「坂本さんが、また変なことを考えとる、と」
龍馬は笑った。
桐野も、少しだけ笑った。
――――――
桐野が帰った後、龍馬は一人で座っていた。
西郷とぶつかる。
それは分かっていた。
西郷は偉大な人間だった。だが国を作ることと、国を経済から守ることは、別の話だった。
西郷は前者が得意だった。
龍馬は後者を、やらにゃならんと思っていた。
どちらが正しいか。
両方、正しかった。
だから難しかった。
龍馬は煙草に火をつけた。
煙を吐いた。
窓の外で、蒸気船の汽笛が鳴った。
どこかへ出発する船だった。
龍馬はその音を聞きながら思った。
仕組みを作るのは、孤独だ。
剣で戦う方が、まだ簡単だった。
斬れば終わる。
だが仕組みは、斬れない。
作り続けるしかない。
誰かに止められても、作り続けるしかない。
龍馬は煙草を持ったまま、しばらく動かなかった。
それから立ち上がった。
やることは、まだ山ほどあった。




