第二十二話 グレイ、長崎に来る
グレイが長崎に現れたのは、桐野が来てから十日後だった。
予告はなかった。
龍馬が波止場を歩いていると、向こうから来た。
上海と同じだった。
「奇遇ですね」龍馬は言った。
「長崎は狭い」グレイは言った。
龍馬の言葉を、そのまま返した。
二人は少し笑った。
――――――
波止場の端に、並んで立った。
海を見た。
「仕事ですか」龍馬は聞いた。
「ええ」グレイは言った。「新しい航路の調査です。薩長が動き始めた後、日本の港の地図が変わります。その前に、動いておく必要がある」
「どの港を見ています」
「長崎。神戸。横浜」グレイは言った。「新政府ができれば、首都に近い港が重要になる」
「横浜を押さえるつもりですか」
「調査です」グレイは言った。「まだ何も決まっていない」
龍馬は海を見た。
調査という言葉が、長崎の波止場での最初の日を思い出させた。
手帳に地図を書きつけていた、英国人の男たち。
あれも、調査だった。
「グレイ」龍馬は言った。「儂は今、海援隊を変えとります」
「知っています」グレイは言った。「長崎の商人の間で、話が出ていました」
「どんな話が」
「海援隊が、保険の仕組みを作ろうとしている、と」グレイは言った。「それから、各地の港との情報網を作ろうとしている、と」
「筒抜けですね」
「長崎は狭い」グレイは繰り返した。
龍馬は苦笑した。
――――――
しばらく、二人は海を見た。
波が来て、引いた。
「坂本さん」グレイは言った。「一つ、正直に聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたが作ろうとしている仕組みは、我々の仕組みと競合します」グレイは言った。「それは、分かっていますか」
「分かっています」
「競合すれば、どちらかが負けます」
「知っています」
「あなたが負けるかもしれない」
「知っています」
グレイは龍馬を見た。
「それでも、やるんですか」
「やります」
グレイはしばらく黙った。
波が来て、引いた。
「なぜですか」グレイは言った。「合理的に考えれば、我々と組んだ方が、速く、大きく動けます。あなたの目的も、ある程度は達成できます」
龍馬は海を見た。
「ある程度、では足りません」
「なぜですか」
「ある程度選べる、というのは、選べないのと同じです」龍馬は言った。「港を選べる。航路を選べる。それが、外国の会社の許可の範囲内でしか選べないなら、意味がない」
グレイは黙った。
「インドの人間は、英国の鉄道を使えます」龍馬は続けた。「でも、鉄道をどこに引くかは、英国が決めた。それは、選べているとは言いません」
「……その通りです」グレイは静かに言った。
「だから、組めません」
グレイはしばらく龍馬を見ていた。
「坂本さん」グレイは言った。「あなたは、ロンドンで変わりましたね」
「そうですか」
「長崎で最初に会った時より、ずっと鋭くなった」グレイは言った。「そして、ずっと頑固になった」
「頑固ですか」
「ええ」グレイは言った。「以前は、まだ迷っていた。今は、迷っていない」
龍馬は少し考えた。
「迷っていないわけじゃない」龍馬は言った。「ただ、やることは決まった」
「違いが分かりません」
「迷いながら、動く」龍馬は言った。「それだけです」
――――――
夕方になった。
二人はまだ、波止場に立っていた。
「グレイ」龍馬は言った。「儂と競合することになりますが、恨んでいませんか」
グレイは少し笑った。
「恨んでいません」グレイは言った。「むしろ」
「むしろ」
「あなたが動く方が、面白い」グレイは海を見た。「日本が、自分で設計しようとするなら、我々も設計を変えなければならない。それは、悪いことではありません」
「商売上は、困るでしょう」
「ええ」グレイは言った。「でも、ロンドンで言いました。正しいことが、全てを許すわけではない、と」
「四度目ですね」龍馬は言った。
「そうですか」グレイは少し驚いた顔をした。
「数えていました」龍馬は言った。「あんたがその言葉を言う時、本心が出とる気がして」
グレイは黙った。
しばらして、静かに言った。
「……そうかもしれません」
――――――
グレイが帰る前、龍馬は懐から手紙を出した。
ロンドンで書いて、まだ送っていなかった手紙だった。
「これを」龍馬は言った。
グレイは受け取った。
読んだ。
短い手紙だった。
グレイはしばらく手紙を見ていた。
それから、折り畳んで、懐に入れた。
「ありがとうございます」グレイは言った。
「礼を言うのは、儂の方です」龍馬は言った。「あんたから、一番多くを学んだ」
「それは」グレイは言った。「複雑な気持ちです」
「そうでしょうね」
「ですが」グレイは言った。「悪い気持ちではありません」
二人は向き合った。
握手をした。
グレイの手は、今日も冷たかった。
だが力強かった。
「またいつか」グレイは言った。
「競合相手として」龍馬は言った。
「ええ」グレイは言った。「競合相手として」
グレイは歩き出した。
波止場の人混みに、背広姿が溶けていった。
龍馬はその背中を見た。
あの男は、これからも帝国のために動く。
止まらない。
だから龍馬も、止まれない。
龍馬は海を見た。
波が来て、引いた。
繰り返していた。
止まらなかった。




