最終部 日本という会社 第十九話 長崎に帰る
第三部「ロンドン嵐」あらすじ
上海で見た世界の線は、全部ここから引かれていた。
ロンドン。灰色の霧。石炭と川の匂い。テムズ川を行き交う無数の船。世界の中枢で、龍馬は帝国の設計者たちと向き合う。
東インド会社前取締役、ウィリアム・ホルト卿は言った。「必要なことをしてきました」「正しいこととは、違うかもしれません」
龍馬は自分の変化に気づき始める。言葉がグレイに似てきた。視点がグレイに似てきた。中岡慎太郎が言った。「なんか、異国の人みたいな目をしてる時がある」
グレイは最後の夜、初めてインドで見た村の話をした。燃える家を前に、泣かずに座っていた老人の話を。
「仕組みの中にいると、止まることができない」
「どうすれば、飲まれずにいられますか」龍馬は聞いた。
「仕組みを信じない人間を、一人だけ傍に置く」
龍馬は長崎の波止場を思い出した。汐の顔を思い出した。
日本の情勢が動き始めた。龍馬は帰らなければならなかった。
長崎の港は、霧だった。
龍馬が出発した時と、同じ霧だった。
だが違って見えた。
ロンドンの霧を知った目には、長崎の霧が白く見えた。
煤が混じっていない。
石炭の匂いより、潮の匂いが強い。
龍馬は甲板に立ち、近づく港を見た。
小さかった。
上海より小さい。ロンドンより遥かに小さい。
だがそれが、今の龍馬には別の意味を持った。
まだ、設計できる。
まだ、間に合う。
――――――
埠頭に降りると、海援隊の隊士が数人待っていた。
「お帰りなさい」一人が言った。
「ただいま」龍馬は言った。
「ロンドンは、どうでしたか」
「重かった」龍馬は言った。「でも、見るべきものを見た」
隊士たちは顔を見合わせた。
龍馬の顔が、出発前と違うと感じたのかもしれなかった。
龍馬は港を見た。
波止場に船が並んでいた。荷役の男たちが動いていた。
全部、変わっていなかった。
だが龍馬の目には、違って見えた。
この港の水深。石炭の補給能力。航路の接続性。保険の加入状況。
全部が、数字として見えた。
龍馬は首を振った。
まだグレイの目が残っていた。
――――――
その夜、龍馬は汐を訪ねた。
店は、まだあった。
父が死んで、店が縮んでいた。だが汐は一人で続けていた。
龍馬が戸を叩くと、しばらくして汐が出てきた。
龍馬を見た。
何も言わなかった。
しばらく龍馬を見ていた。
「変わりましたね」汐は言った。
「そうか」
「目が」汐は言った。「怖い目になった時と、元の目の時と、混じってる」
龍馬は汐を見た。
中岡と同じことを言った。
「怖いか」
「怖いというより」汐は少し考えた。「遠くを見てる目になった時がある」
龍馬は黙った。
「上海とロンドンで、何を見てきたんですか」汐は聞いた。
龍馬は店の外を見た。
波止場が見えた。蒸気船の煙が、夜空に上がっていた。
「世界が、どう動いているかを見てきた」龍馬は言った。
「それで」
「帰らにゃならんと思った」
汐はしばらく龍馬を見た。
「なぜですか」
「ここに、帰らにゃならん理由があるけん」
汐は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
――――――
龍馬は店に上がった。
汐が茶を出した。
二人で向き合った。
「汐」龍馬は言った。「儂は、海援隊を変える」
「どう変えるんですか」
「船だけじゃいかん」龍馬は言った。「情報を持つ。保険を作る。航路を設計する。日本中の港を繋ぐ」
汐は黙って聞いた。
「それは」汐は言った。「英国人と、同じことをするということですか」
龍馬は汐を見た。
「似た道具を使う」龍馬は言った。「でも、目的が違う」
「目的は」
「人が、選べるようにすること」
汐は少し間を置いた。
「言葉が、上手くなりましたね」汐は静かに言った。
「そうか」
「でも」汐は茶碗を持った。「最初にそれを言ったのは、誰ですか」
龍馬は止まった。
「あなたじゃないですよね」汐は言った。「英国人が、言いましたか」
「グレイが、似たことを言った」
「そうですか」汐は茶を飲んだ。「その人の言葉で、動こうとしていませんか」
龍馬は黙った。
汐は続けた。
「選べるようにする、というのは正しいと思います」汐は言った。「でも、それを言った人間が誰かによって、意味が変わります」
「どういうことじゃ」
「英国人が言う『選べる』と」汐は窓の外を見た。「父が死んだ港の人間が言う『選べる』は、同じ言葉でも違います」
龍馬は汐を見た。
「儂は、どちらに近いと思う」
汐はしばらく黙った。
「今は」汐は言った。「分かりません」
「分からんか」
「だから、傍にいます」汐は龍馬を見た。「分からなくなったら、言います」
龍馬は黙った。
グレイの言葉が戻ってきた。
——仕組みを信じない人間を、一人だけ傍に置く。
汐が、その人間だった。
最初から、そうだった。




